1999
●私的映画月間
1.「踊れ!トスカーナ」
2.「運動靴と赤い金魚」
3.「恋におちたシェイクスピア」
4.「ハムナプトラ」
5.「アルナーチャラム 踊るスーパースター」
6.「秋刀魚の味」
●聴覚エクスタシー(奥泉光氏・いとうせいこう氏による朗読会)
沖縄に行ってきたのはわずか一ヵ月前なのにもう遥か昔のような気がする今日この頃、である。思い起こせばいろいろあった。帰る予定の日に台風のため那覇で一日足止めをくらい、翌日は飛行機をキャンセル待ちすること十数時間。やっと乗れた大阪行きの飛行機で夜の関空へ。そして関西空港ロビーのソファーで一泊(関空は毛布貸し出し制度があって、いやー、いいとこですねん)。翌朝の第一便で羽田へ。沖縄と比べ物にもならない海の色を見るなり一気に現実に引き戻され寂しさを感じる。バカンスは終わった……。
いったん家へ帰り、すぐ仕事の打ち合わせのため出かけた、ちょっとお疲れのわたくしであった。そして夕方まで続いた長い打ち合わせを済ませ、私の沖縄みやげをつまみに、仕事先のみなさんと職場でちょっと一杯……。つまみにした沖縄みやげとは、缶詰めのポークハム“スパム”や、豆腐のチーズのような“豆腐よう”、海草の一種“海ぶどう”などなど。沖縄に行ったことのある人はそのときあまりいなかったので、みんな物珍しげに寄ってきて、みやげを囲み飲み始めた。“豆腐よう”は独特の臭いとクセのためおおむね不評だったが、“スパム”と“海ぶどう”は大好評。特に海ぶどうは、みんなが次々とつまんでいき、みるみるうちになくなりそうだった。
海ぶどうは、その名のとおり“ぶどう”に似ている海草だ。マスカットのような色で、もちろんあれほど粒は大きくないが、数ミリの粒々がぶどうの房状になっているもの。これを市場で買ったとき、売り場のおばちゃんが「水に入れておくと増えるのよ」と言っていた。「海水みたいな塩水にしたほうがいいの?」と私が聞くと、真水でも平気だという答えだった。
みんなで酒盛りしていたその日その場にいなかった女の人のために、というのと自分の好奇心のために、私は海ぶどうを育てようと試みた。
その晩、空き容器に水を張り、残しておいた海ぶどう二房を入れた。いつ増殖を始めるのか楽しみにして「海ぶどう日記」でもつけようかなどと思っていた。しかし、バカンスのツケでその後仕事が大忙し。ある日は泊まり仕事をしてしまった。沖縄から帰ってきてから最初の一週間ほどは“海ぶどう”の水を入れ替えていたりしたものの、その後どうも忘れがちに。事務所で私以外に“海ぶどう”の世話をする人もいなかったから、いつしかその存在は忘れられてしまっていた。
仕事が一段落し、事務所に顔を出すのが週に2日ほどとなっていた今月。家にいるときは「そういえば海ぶどうはどうなったかな!?」と気になったりするものの、事務所に行ったら行ったで忘れてしまっていた。
今月半ば、久々に思い出して「そういえば海ぶどう、どこ?」と聞いてみると、窓際にあるとのこと。覗きに行ってみると、なななんと。マスカット色だった海ぶどうは、透明になってしまっていた。色が抜けたうえ、増えてもいない。「死んだかな」と思いつつ、水を替えてまた窓辺に置いておいた。それからおよそ一週間、ときどき覗いて水を替えているが、増えもせず溶けもせず漂いもせず、いまだ水の中に横たわっている。もしかすると冬眠だろうか。そういえば、冷蔵庫にも入れちゃ駄目っておばちゃん言ってたな。沖縄と本州の気候が違うせいかな?
美味しかった海ぶどうを増やして、食べ残しをまた増やして、食べ続けることを思い描いていた私の夢はどうやらかないそうもない。かくして海ぶどうはあえなく海のもずく、じゃなく、藻屑になるところであった……。いや、もうなってるかな。死んでるのか生きてるのか分からなくて、なんだか捨てることができない。うーん、いつまで飼育するかな……。ああ、海ぶどうの味が恋しい。
(10/25up deted)
※新宿に沖縄ソバの店がありますが、先日初めて気付き入ってみました。カウンターだけの、きれいとは言い難い店ですが、味は沖縄で食べたものに近いです。ハムもしっかりチューリップハム缶詰めでしたし。ゴーヤーチャンプルーもありました。夜遅くまでやってるようなので、しっかり急いで食べたい沖縄料理好きにはおすすめです。
10月は仕事が一段落したとたん、また忙しくなりそうな時期まで、空いた時間を埋めるように映画を観てきました。時間貧乏性だなあ……。次はまたいつ時間が空くかと不安になってしまうのよね。また、ご近所友達のOとコンビニでばったり会ったときの「私いまライブでぱーっと盛り上がりたいの!」という言葉に私も「そうね!」と反応し、急にライブも行きたくなり、突発的に問い合わせたライブ2本(チャラとエレファントラブ)にも行って参りました。
音楽と映画三昧のうたかたの日々も過ぎ去り、これを書いているのはもう11月ですが、遊びと仕事で忙しかった10月後半に観た映画のことなど振り返ってみました。観たものそれぞれがバランスよく精神的なツボにきて、全身マッサージをしてもらったようで快く過ごせた10月後半でした。リバイバルものとかいまさらなものもあるかもしれませんが、精神的なこのコリのどこを癒すかなど無理やり半分でっちあげつつ、ひとくちコメントなどつらつら書いてみます。なお、各効能については、すべてが私の精神状態に該当するわけではありませんのであしからず。ふと振り返ってみるとこんな効能もあるのかな、というわけで。
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●「踊れ!トスカーナ」(10/8 飯田橋ギンレイホール)
(精神的なこのコリに効果的?:平凡な日常における倦怠感/特に男性)
かなり男の妄想と憧れが入った、男性版シンデレラストーリーといえましょう。でもイヤラシイ感じはなく、けっこう女性も楽しめるハートウォーミングな映画です。ひまわり畑の広がるイタリア・トスカーナ地方に住み、イタリア男にしては真面目でシャイな設定の主人公・レバンテは、町の商売人たちを顧客にする会計士。その仕事に満足しながら、平凡な日常を過ごしていました。ところが、町にひとつしかないホテルの行き先を示す標識が壊れていたことから、巡業中のフラメンコ・ダンサー一行を乗せたバスが彼の家に深夜到着します。ホテルが満室だったため数日一家のところに滞在することになった一行。さてそれからというもの、レバンテ一家はもちろん、町中が大騒ぎ。レバンテ一家をはじめ、町の人々とダンサーたちとの恋のさやあてが繰り広げられる……という、降って涌いた偶然で日常が一変する、マンガのような設定のお話です。私は仕事帰りに何も予定がなかったのでふらりと映画館に立ち寄り、フラメンコの踊りシーンがあるとのことで偶然観たのですが、いやあ、テーブル上でそして太陽のもとで踊りまくる美人ダンサーたちの踊り、なかなか楽しかったです。ダンサーのなかの一人がちょっぴり気になるレバンテは浮き浮き気分で、やもめの父親、変わり者の弟、レズビアンの妹もそれぞれ目をつけたダンサーがいて上機嫌です。私もちょっと彼らの気分だったかも。って言ってもレズじゃないんですけどね。レズビアンの妹に関心を示すダンサーがいるのもちょっとお楽しみな設定。
主人公のレバンテが一番普通で、脇を固める人々がかなりのくせ者揃い。それぞれのキャラもけっこう楽しめます。非現実的な設定のなかで、真面目でオクテなレバンテが憧れの美人ダンサーをどう振り向かせていくか……という過程が、ここだけ妙に現実的で普通でオタオタしてて、そのあたりが親しみ持てます。恋愛ドタバタで楽しませるだけでなく、なかなかに“人”をしっかり描いた映画だと思います。最後まで姿を見せなく、声だけの出演のおじさんも印象的に描かれています。
最後に一言。レバンテが着ていたTシャツの日本語プリント、“癇癪(かんしゃく)持ち”、おしゃれー。
(11/12up dated)**********************************************
●「運動靴と赤い金魚」(10/15)銀座
(精神的なこのコリに効果的?:買い物依存症、もしくは兄弟不仲)
自慢ではないが、私は幼いころから足が大きかった。小学校一年生で、確か20センチ。六年生ですでに24センチ。足が大きいと背が伸びるといわれていたので、周囲も自分もかなり期待していたが身長のほうはあまり進展がないまま大人になってしまった。なぜ足だけ極端に大きくなったかと考えてみると、いつもブカブカの靴を履いていたから、という気がしてならない。物心ついたときから、私の履く靴はいつもゆとりのあるものだった。物のない時代に育った、もったいながり屋の母親が、「すぐ小さくなって履けなくなるともったいないから」と大きめの服や靴を買っていたのである。私はよく、「自分の足にぴったりの靴が欲しいなあ」と思った。でも靴は大事にしていたようだ。昔母親が書いた育児日記(飽きっぽかったらしく年記になっているが)の2歳の記録には、「自分のズックを兄が踏むと怒る」と書かれている。昔は運動靴をズックと言ったのよ。今の子供は、おしゃれなスニーカーとかいっぱい持っているんだろうなあ。ともあれ、幼い頃は、大人にとってはたいしたことないものが大切だったりした。「運動靴と赤い金魚」のパンフレットを見ていると、そんなことをふと思いだした。さて、映画の話のつもりが自分の話で始まってしまったが、この映画の主人公たちは、イラン人の兄と妹。プロの子役ではなく、一般人から選ばれた子たちだという。イランでは宗教上の理由から映画の表現にも統制が多いらしく、そのなかで子供をモチーフにした映画は、広い層が無難に楽しめるということで伝統的に多いようである。
刺激的でなく、セリフも多くなく、シンプルだが強い主題を持った脚本と、少年少女の豊かな表情とから紡ぎだされる時間の流れは、なんだか心の奥をうずかせる。
貧しい一家の、長男の少年がおつかいに出た帰り、修理に出していた妹の靴をなくしてしまう。兄と妹の靴はそれぞれ一足しかなく、家が豊かではないことをよく知っているふたりは、親に「買ってくれ」と言えない。自分がなくしたことで親に怒られるのを恐れもする兄は、まず自分の靴をはかせて妹を学校に行かせ、自分が行く前に待ちあわせし靴を履き替えていく(イランでは男女の教育時間が別で、午前と午後に別れているらしい)。妹は兄が学校に間に合うよう待ち合わせ場所へ走り、兄は遅刻しないよう走る。遅刻して怒られても、理由を言えない。彼らは毎日毎日、そうやってひたすら走る。間に差し込まれるエピソードで、なんとか親に知られないうちに靴が戻ってくるか、副業で臨時収入を得た父親が買ってくれるか、という寸前までいくが、結局はかなわない。あるとき兄は、他の学校の生徒も出場するマラソン大会での、3等の商品が“運動靴”であることを知る。新品のそれを売れば、妹の靴が買える。兄は、妹のために“3等”になることを誓って走る……。
1等でなく、3等というところがいい。結果はぜひ映画を観てもらいたいのだが、この走るシーンがなんともいえずいい。金持ちの家庭の子は新しいジャージーやスニーカーを身に付けて走っているのだが、兄はいつものボロボロのズックでひたすら走る。そして……。
この映画が心地よいのは、彼らが外的な力をあてにせず、自分たちで小さな(でも彼らにとっては大きな)困難や問題を解決しようとしているからだ。誰かのために何かを一生懸命やる、かけがえのないたった一つのものを求める、という姿を目の前にして、ちょっぴりせつない気持ちになる。かといってこれは、物を大事にするとか、兄弟愛とか、富と貧困の対比とか、教訓的な話ではない。子供の目線を取り戻させてくれる、大人にこそ観て欲しい映画だ。
(11/13up dated)*****************************************
●「恋におちたシェイクスピア」(10/16)目黒
(精神的なこのコリに効果的?:恋愛疲労)どうでもいいことですが、恋することをなぜ“落ちる”と言うのでしょうか。英語で言うとフォーリンラブ。直訳するとなるほど“恋に落ちる”です。英語の影響か、日本語でも“恋に落ちる”と言います。かつてそんなふうな歌もありました。恋ってやっぱり突然不可抗力的にやってくるものだとは思いますが、個人的にはその語感は好きではありません。なんだかどこまでも落とされて奈落の底まで、って感じがしやしないでしょうか。さらにどうでもいいことですが、この映画の原題は“Shakespeare in love”です。落ちていないのに“おちた”とはこれいかに、って気もするのですが、それはまあたいした問題ではありません。もしかすると暗に先の展開の意味を含めたものだったりして、と深読みしたりもします。
ともあれ、ダイヤル回して手を止めて、ではなく、電話のない時代に恋する女性と出会ったシェイクスピアは一心に恋情を手紙や戯曲に書き綴ります。なんたってシェイクスピアですから。シェイクスピア役の濃い顔役者のジョセフ・ファインズによる劇中劇の演技は、芝居臭くなく、なかなかに魅せてくれます。グウィネス・パルトロウの男役演技もけっこう楽しめます。コミカルな演技もできることでちょっと見直しました。お嬢様役よりも合っているのではという気がします。
ストーリー的にも、古典的なシェイクスピア物語をなぞらえることに陥らず、大胆な仮説を取り入れたエピソードがひとひねりふたひねりしてさし挟まれていて飽きさせることがありません。シェイクスピアをよく知らなくても、かなり楽しめる映画です。特に後半、クライマックスの劇中劇は役者を見る楽しみと、先の展開にハラハラ気分がないまぜになったひとときでした。
この映画の楽しさの要因は、単なるシェイクスピアもののストーリーや時代設定の再現に留まらず、豊かな想像力で一回りも二回りもキャラクターや設定を膨らませたことにあるでしょう。映画と演劇の娯楽性をたっぷり魅せてくれた、私にとって久々の快作。こんな恋愛物語ありえない、とハナから分かっているからこそ、楽しめるのかもしれません。そういえば最近、“落ちて”いないなあ……。というオチがあったところで本日はこのへんで失礼します。
(11/22up dated)********************************************
●「ハムナプトラ」(10/16)目黒
(精神的なこのコリに効果的?:冒険気分を味わいたい)さてここでまた前回に続きタイトルネタ。こちらの原題は『THE MUMMY』です。つまり、ミイラ。映画観てからひと月遅れの現在、世間を騒がせている話題のタイトルです。しかしこれ、邦題がそのまんま『ミイラ』だったら果たして日本でどこまで話題を呼んだでしょうか。あるいは『ザ・マミー』だったとしたら。どうとっても印象はB級ホラーです。いや、この映画自体がB級って話もありますが。そういや観たことはありませんがしょうもないタイトルでは『死霊の盆踊り』ってなのもあったような。ではカタカナ表記で“ザ”を取って『マミー』はいかがなものか。うーん、それではビスケットみたいです。対して『ハムナプトラ』。なんだかよく分からないけどかっこ良さげじゃありませんか。どうして原題もこれじゃなかったんでしょうかね。まあ、この例が示すことがひとつあるとしたら、人はタイトルだけではなくやはり映画の中身をよく観ているということでしょうか。タイトルがいっちょまえで中身がアララな映画もありますからね。まだまだ世の中捨てたもんではありません。
砂漠フェチの私としては、なかなかたまらない映画でした。ついでにヒーローが佐藤浩市サン似でワイルド系のブレンダン・フレイザー、しかもなかなかにテンポよく楽しませてくれるストーリーとあって、一粒で3度(サンド=砂とひっかけてたりして。あちゃー)おいしい映画でした。先に書きました『恋におちたシェイクスピア』と2本立てで観て、2本目だったのですが時間が経つのも感じさせないひとときでした。
そう、なんでか私はとっても砂漠が好きなのです。だから映像として眺めているだけでもゴキゲンです。そこで冒険活劇などが繰り広げられていたりしたら、もーさらに心が踊ります。でも私は砂漠の熱暑のもとで過ごしたことはまだなく、ほんとの意味で砂漠の恐さや辛さは体験していません。ドバイでは砂漠で一泊しましたけれど。遠くにありて想うもの、だから憧れるのかもしれませんけれど。
砂漠好きになったきっかけはまず、小さいころに読んだ絵本の『アラビアン・ナイト』。私のこのホームページのタイトルでもある、“OPEN SESAME--ひらけ、ゴマ”は子供心に夢を広げる憧れの呪文でしたっけ。そして、私が好きだった本に数々登場してきた砂漠の描写が砂漠への憧れに拍車をかけました。竹宮恵子さんのマンガ『ファラオの墓』、サン・テグジュペリの『星の王子様』、作者は忘れたけど古い本で『アグラへの道』などなど。それらを読んでは、まだ見ぬ砂漠のことを夢見ておりました。いかん、映画からかなり話がそれてしまいました。
さてスクリーンでは砂漠(撮影はモロッコだったそうで)や失われた都を舞台に、その謎と古代エジプトの財宝を巡って冒険が繰り広げられます。原題がTHE MUMMYですから、もちろんミイラも登場します。呪いと復活、うーん、時節柄恐い話題です。映画のミイラはあまり恐くなかったですが、本物のミイラはかなり恐いです。やはり人間は蘇ってはいけないのじゃないかと、時節柄(しつこい)思ったりします。一度しか生きられないからこそかけがえがないのではと。まあそんなことは映画を観ている間は考える暇も与えないくらい、これでもかという出来事が次々と目の前に現れてきます。まるでそれはゲームのように息もつかせぬ展開。失われた都の地下を駆け巡り逃げる一行、まるでゲームのなかのダンジョンです。私はゲームほとんどしないんですが、きっとゲーム好きな人ってこの感覚が好きなんだろうなと思いました。最近のSFXものってあまり好きじゃなかったのですが、中身が面白ければそれはそれでいいのです。
というわけで、こうして書いているうちにもまた砂漠に行きたくなってしまった私。次に目指すはモロッコ、チュニジアかなー。
(11/25up dated)
*********************************************●「アルナーチャラム 踊るスーパースター」(10/20 新宿)
(精神的なこのコリに効果的?:黄昏た気分)昨年大ヒットした『ムトゥ踊るマハラジャ』主演のスーパースター、ラジニカーントがまたもや踊りまくる映画。昨年は立ち見にもかかわらず大笑いして一緒に観た友人、ヒロを誘いまたもや観に行ってきました。ヒロいわく、「ハリウッド進出のインド映画やってるじゃない。でもなんか、あの主演の男だと物足りないんだよね。ラジニカーントって最初はなんてくどーい顔、って思ったけど、やっぱあの人じゃなきゃー」。まったく同感の私でありました。くせになるくどさ。毎日は嫌だけど、時々無性に食べたくなる激甘チョコレートバーみたいです。あるいは脂ギトギトのトンコツラーメンといったところでしょうか。
出演者には『ムトゥ〜』のときと同じ役者も何人かいて、役どころも似たような感じ。日本でもヒットしたドラマとか映画とかあると、また同じメンバーで組むことが多い、あれと似たような感じでしょうか。
前回観たときは最初のタイトルがでかでかと大層な雰囲気で出てきて、ラジニを称する“SUPER STAR”のロゴが出てきたときから大笑いしてたのですが、今回はあまりインパクトを感じず、時間も短かった気がしました。でも、あとでまた『ムトゥ〜』をビデオで観てみたところ、同じぐらいでした。それぐらい最初のインパクトが強烈だったということですね。
さて映画の内容は、相変わらずの出生の秘密ネタ、ドタバタ恋愛、もつれた三角関係、悪人との戦い。踊りのシーンもまたまた盛りだくさん。しかし、今回のヒロイン、ヴェーダヴァッリの踊りが、『ムトゥ〜』に出ていたミーナよりややいまいちの感じだったのが少々残念。前は踊りにはかなり感心して観てたのですが。チャーミングな女優さんでしたけれどね。ラジニも踊りのアクションはやや減少気味だったような。これも気のせいでしょうか。でも彼の年を計算してみると、かなりな年齢のはず。30歳の役を演ずるのはちょっと、オイオイ、ってな気もします。
まあ比較ばかりしていてもしょうがないので、本作について。お金よりも情を大事にするラジニ演ずるアルナーチャラムは、運命のいたずらでその意に反し、お金を湯水のように使い、大金を使い果たさねばならないようになります。そのために政界にも進出。なんだかラジニカーント本人が政界に進出するという噂を地でいくような設定です。インドの上流階級の暮らしぶりや都市の様子もかいま見られて、かなり現代的。でもやはり最後は古典的な人情で締めます。
『ムトゥ〜』のほうが慣れがなかったぶん爆笑度的には高かったのですが、本作の最後の方のアクションシーンで、出てきました、ぶっ飛びの爆笑カット。「この手で危機を脱するとは思わなかったぞ!」というマンガチックな手に、それまでの緊迫感もどこへやら。映画館は笑いの渦。何がどうだかっていうのは観たときのお楽しみに。
ラジニカーントの映画って、馬鹿ばかしさを超えちゃって、なんとも人をシアワセにしてくれます。いやー、インド映画ってほんとにいいものですね(淀川定治さんふうに)。(11/29up dated)
※箱入りのパンフレットを買ったら、かのスーパースターの写真入りハガキが入ってました。欲しい方がいらっしゃいましたら、どうぞおっしゃってください。先着5名様にお送りしますよ。そういえば、友人BUHIから、インドのリゾートに行く仕事のお誘いがあったので行きたかったのですが、ちょっと無理でした。残念だなあ。
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●秋刀魚の味(10/21 ラピュタ阿佐谷)
(精神的なこのコリに効果的?:嫁に行っていないことをふと省みる)今年は暖冬の影響で、秋刀魚が不良、ではなく不漁だったそうです。などということはこの映画とは何の関係もないのですが、かねてより私はこの映画を観たいと思っておりました。小津安二郎氏の映画はほとんど観たことがなかったのですが、この映画のタイトルからして、きっと家族の食事シーンなどが出てきて秋刀魚もモチーフに使われているんだろうな、などと思っていたわけです。映画館で小津特集をやったのは季節的にも秋の始まり、秋といえば秋刀魚が旨い季節。単純な私は、数日前に秋刀魚の塩焼きを食べたこともあって、ますますこの映画が観たくなりました。そこで仕事に出かける前に朝から映画館へ。映画館といってもミニシアターといった感じの、ビルの一室。目立たぬところにあり目立たぬラインナップの上演をしていますが、なかなか渋いシアターだと思います。
さてここまでお読みになった小津通の方は鼻でせせら笑っていると思いますが、『秋刀魚の味』には秋刀魚などは一度も出てきません。私、いつ秋刀魚が出てくるのか待っていたのですが、いつの間にかラストになってました。うーむ、小津氏はそんなあからさまでベタな真似はしなかったのですね。心憎いです。タイトルだけで全体に漂うニュアンスを表現するなんて、さすがという気がします。若かりし頃の笠智衆が、穏やかな笑顔で演ずる父親役の最後に見せる、ほろ苦くしょっぱい感情がなんともいえずじんわりと伝わってきます。
この映画で描かれているような、やもめの父や家族のことを考えて自分はまだ嫁に行けないと考える娘なんて、現代ではもう稀にしかいない天然記念物のはず。生まれたときから冷蔵庫がある暮らしが当たり前だった私の世代にとっては、息子夫婦が冷蔵庫を買う買わないで話し合っていることには現実感が伴いません。でもこの映画で描かれている生活がどこか懐かしい気がするのは、幼い頃には当たり前のように囲んでいた家族との食卓や、親と子のつながりを思い出させるからなのでしょうか。何気ない日常を描きつつ、そのなかに隠れた人々の感情をさりげなくさらりと見せてくれます。さりげないけど後をひく、そんなしみじみとした映画です。
(11/29up dated)
●聴覚エクスタシー
(すばる文学カフェにて開かれた、奥泉光氏・いとうせいこう氏による朗読会 10/28)朗読会というと、しんとした空間に朗々と響き渡る声……というもの静かで文学的な雰囲気を思い浮かべるかと思うが、この“すばる文学カフェ”での朗読会は一味違う。って、この会を初めて見たくせにいいかげんな発言だけれど。ともあれ、小説を作者本人による“肉声で聴く”ことは愉快というと語弊があるかもしれないが、ファンにとってはなんとも楽しみなものだ。それに加え、奥泉氏はフルートの演奏、いとう氏はラップを披露するという前評判があるので期待もするというもの。
奥泉光氏の朗読は、翌月『すばる』に発表される連載小説を読むというサービス。しかも前置きとして、「なんと奥泉光初のラブシーンです」。ギター演奏のため後ろに控えていた、連載誌の編集者、秘かに笑いをかみ殺していた。照明が落ち、奥泉氏によりその原稿が読み上げられていく。“初のラブシ−ン”という箇所がどんなものかと若干の期待を込め、聞き手は待つ。奥泉氏の朗読は、ちょっと芝居がかった読み方で、“」”(かっことじ)や“!”(びっくりまーく)まで丁寧に読み上げることもあって、あちこちから忍び笑いがもれていた。そういう私もかなり楽しませてもらった。話は真面目なのになぜか可笑しい。そのうえ、たぶん字面で読むより数倍可笑しかったのが、「わたしの馬鹿心」のくだり。『My Foolish Heart』という曲のタイトルを『わたしの馬鹿心』と訳した訳者のことを語るあたりでは、忍び笑いどころか客席は爆笑の渦。奥泉氏はなかなかにお茶目な方である。しかし、ラブシーンとは朗読されるとどうしてこうも可笑しさを伴うのだろう。黙読ならこんなに笑えるはずはないのだけれど。
朗読の間に、奥泉氏のフルート演奏が差し挟まれる。このときばかりは真剣な表情の奥泉氏だった。方や、いとう氏の朗読スタイルは、奥泉氏とはまったく異なるものだ。コーナーにDJ機材が並んでいるところを見ると、おそらく以前別のところでも行なわれた、“朗読ラップ”であることは間違いない。マイクを前に腰を下ろしたいとう氏は、頃合いをみていきなり朗読に入った。説明は一切ない。奥泉氏のユーモアとサービス精神一杯の前ふりも楽しいが、いとう氏の、作品世界の表現だけに徹するクールさも私は好きだ。
書名は言わなかったが、章名が読み上げられ、その本が『豊かに実る灰』であることを私はすぐに理解した。数年前に読んだきりだったが、いとう氏の著作のなかでは好きな一冊だった。占い師によるタロット占いで出たカードといくつかの西暦年数ごとに章立てされ、世界の国々を舞台にしたフィクションが繰り広げられる、実験的な短編小説集だ。そのうち、最初に読み上げられたのは“南アフリカ”の章だった。かなり速いスピードで朗読は続く。
以前ほかのところで聴いたときは、いくつかの著書やアルバムの詞を途中で切り替えていたが、かなり経ってもほかの著書に切り替える気配はない。朗読がラップ調に変わる兆しもない。前の日徹夜をしてしまっていた私は、朗読の声から生まれる一定のリズムの波に、途中で眠気を誘われてしまった。眠りこけこそしなかったものの、催眠にかかったように少々ぼーっとしているうち、朗読が一段落した。どうやら一章全部を読み切ってしまったようだ。
その後は、自作のアルバムの朗読ラップへ。『MESS/AGE』から「LOVE ONE PIECE」「トロイの木馬」「噂だけの世紀末」などが朗読調からラップ調へと移り変わりながら揺らぎながら、いとう氏の声に乗り唄われる。それらの歌詞を聴いて、私はいとう氏がここで表現しようとしているのかもしれないことを感じた。終末論にいろどられた世紀末の噂の愚かしさ、あるいは21世紀への希望。『MESS/AGE』はいまから10年ほども前に、“2000年までもつ”アルバムを作ろう、という意志のようなものを持って生み出されたものだそうだから。廃盤になってまた再発されるという、ロングセラーとはまた別の育ち方をしたこのアルバムのもつ力を、私はこのとき見た気がした。なにしろいとう氏は10年も前に「噂だけの世紀末」のなかでこう唄っているのだから。
----いきづまってると思っていたのはいきづまってる噂のしわざ
さしせまってると思っていたのはさしせまってる噂のしわざ
2001年に誰もが思った こんなことならやっておけた
出口がないと噂して 自分で出口ふさいだことを----1999年に世界が滅びるというあの噂に“くそくらえ”と言いたいような気概を感じるのは、私の気のせいだろうか? 何はともあれ、生きて21世紀の入り口に立ってしまった我々への、静かなメッセージであるような気がしてならない。
私がそんなことを思っている間も、いとう氏のラップは続く。個人的に少し思い入れのあるアルバム、『OLEDESM』からも一曲披露されたのは嬉しかった。
リズムが客席の人々の身体を揺らす。途中、また『豊かに実る灰』の別の章が朗読された。1999年の章だった。
奥泉氏のフルートが間に割って入る。いとう氏と奥泉氏の朗読がリエゾンのように重なり合い、二人の声が追いかけあう。
やがて、また奥泉氏のフルートが奏でられはじめた。いとう氏はそれまでのテンションをやや落とし、クールダウンするように“マダガスカル”の章を朗読した。私はそのとき、そしてこの朗読会の模様をのちにインターネットで再び聴いたとき、この章が最後に読まれた意味が分かった気がした。物語のなかに綴られた、こんな言葉たちになんだか励まされるのだった。----21世紀------現世の喜び-------人生は甘く美しい----喜びの中で生きていけるように僕らはまめに愛など囁く-----
そして、『MESS/AGE』のなかの最後の曲、「MESSAGE」ですべてが終わった。私はこの詞の一節がとても好きだ。----必ずまた来るよ----
あそこにいたたくさんの人は、それぞれ異なる“MESSAGE”を受け留めたことだろう。今度はどんな“MESSAGE”をいとう氏が発してくれるのか、そして私はどんなことを感じるのか、楽しみに次の朗読会を待つことにしよう。ヘタな説法より断然予言的で面白いよ、この『すばる文学カフェ』。
(見てからしばらくたってしまいましたが、ぜひとも書き記しておきたかったので、2000年1/3Up)