1998
●「ポセイドン・アドベンチャー」を観て
●映画「ムトゥ踊るマハラジャ」を観て
●苦悩するサボテンと太宰治の不思議な類似
●「ポセイドン・アドベンチャー」を観て/“神”のいる場所
映画「ポセイドン・アドベンチャー」を先日ビデオで観た。
(ご存じない方のために……少し乱暴に紹介すると、「タイタニック」から恋愛ドラマ要素を抜き、人間ドラマ性を数段高めたような、沈没船パニック映画。70年代の名作である。)
子どもの頃にテレビ版を観て以来だったが、やはり名作だなあとしみじみ感じた。沈みゆく船内がだんだん浸水してきて登場人物たちが逃げ惑いながら脱出を試みる場面場面を、子どもの頃にハラハラしながら観ていたなあなどと思い出す。
最近のSFX画像と比べると、時代差があるのだからやはり見劣りはするが、制作当時は先端の特撮技術だったのだろう。でも人間関係の描き方などは、最近巷にあふれているストーリーがスカスカな映画と比べると、だんぜん緻密で密度が高い。脱出劇に伴う事件の数々も予定調和ではなく、必ずしもいい人が助かるご都合主義的展開でもない。そのうえ、主人公ともいえる牧師(ジーン・ハックマン)の役柄は、猛々しい自信に溢れる人間臭いキャラクター。聖職に就く人間のキャラクターとしてはかなり型破りな存在だ。私は彼を通して描かれた“神”の在り方に、子どもの頃には感じ得なかった感慨を受けた。この映画は船の名前である海の神・ポセイドンと全能の神を二重の意味で否定しているように見せながら、神がいるのは人間の「自分のなか」であると訴えかけている。
牧師は、神を信ずる気持ちはあっても、神に頼らずに、自分たちの手で運命を切り開いていく信念を抱いていた。それは沈没船脱出というパニック状態によっても少しも揺るがず、「自分のなかの神を信ずること」が必要なのだと言っていた。現実の聖職者ならこのようなときには、神に祈って心安らかに運命を待ちましょう、とでも言うようなところだ。しかし、祈りが奇跡を起こすのでなく、行動こそが奇跡に近づく手段であることをこの牧師の言動は見せつける。さらに、「自分を信じる」信念というものが単なる自己過信に陥りがちな点を、かなり傲慢にも見える彼の職種が牧師であるということが救いになっている。その点で、「自分が神」と勘違いしてしまうような人間とは一歩線を引いている。
“祈り”や“奇跡”ばかりを強調する宗教観は、一見すると神を信じているようでありながら、神という他者に寄りかかり、依存しているように私には思える。都合のいい時に神に祈り頼るよりも、やや傲慢であろうが自分のなかの神を信じ行動するほうが健全であるという気がする。ちょっと映画から話はそれるが、日本の新興宗教の「他者に救いを求める信徒」たちの姿の裏には、自分に対する自信のなさが少なからず影響しているような気がしてならない。
大人になって改めて観た「ポセイドン・アドベンチャー」は、スペクタクル映画というよりも人間の生き方を問う宗教的ドラマのように私には感じられた。
(9/25up)
●映画「ムトゥ踊るマハラジャ」を観て
/昭和アニメと同質のスパイシー映画!/(at 渋谷/シネマライズ)/(9/13)さすがインド映画、スパイシーな内容だあ。などと思っていたら、歌と踊りが満載のこの手の映画はインドではマサラ(スパイス)ムービーといわれているとのことだった。やっぱりねえ。
噂には聞いていたが、もー、むやみやたらに踊って歌って、古今東西典型的な勧善懲悪・出生の秘密ネタ、アクションなんかをこれでもかっていうぐらい折り混ぜつつ、笑わせて口あんぐりさせてくれる。上映時間は3時間近くとものすごーく長いのだが、気付くとあっという間。要するに、飽きさせない。踊り始めるとやたら長いのも、踊りが鮮やかで腰のキレがいいから許せてしまう。歌が3番までは必ずある長さなのも、お茶目な歌詞と昔のアニメーションのような無茶なカット割の連続には思わず大笑い。何たって時にはバックに花を背負ってしまうシーンとかあるのだから。役者対役者でなく、スクリーン側の観客に向けてのムトゥのウインクサービスに至っては、もー絶句。あー、なんという濃い役者と演出。でも本国インドのファンたちは、うっとりしてしまうのだろうか。
それにしても、全編に漂うトーンに私は昭和期のアニメと同質のものを感じてしまった。役者のオーバーアクション、さらにそれを増長させるマンガチックな効果音。派手な効果音とともにアップになるオーバーな表情。無意味に延々とひっぱるラブシーン。巻き起こる風とともに現われる重要人物。現実的にはぜーったい無理なことを平気で話に盛り込む。ストーリー展開上はまったく必要ないところでなぜかみんな踊ってしまう。エトセトラ。それらは、なんだか子どもの頃にワクワクしながら観ていた、今となってはクサイ演出のアニメの雰囲気にものすごーく近い。ああ懐かしきかなあの感覚。娯楽映画ってのはここまで極めてこそそう呼べるのだなー。観客席から何度も拍手が巻き起こる映画なんて、そうそうあるもんじゃないだろう。アメリカの下手なコメディ映画なんかより、数倍楽しめる一編だ。思いっきりおバカな気分になりたいとき、人生黄昏た気分になっちゃったときにオススメ。
※しかし、「オースティン・パワーズ」に出てくるドクター・イーブルといい、ムトゥといい、なぜ一人二役なのだ。そしてなぜ両者とも小指を噛んで微笑むのだ……。不思議な共通点である。(9/25up)
●苦悩するサボテンと太宰治の不思議な類似/長雨の夏の終わりに
(9/30up deted)わが家にはセクシーなサボテンがあった。世話不足だったときの名残で胴体が2箇所くびれてしまったおかげで、バストとウエストのメリハリがある女性的な体型に見えるやつだった。
しかしいつからか、彼女の顔はだんだん面長になり、頭でっかちになってしまった。全体の身の丈は20センチくらいなのだが、首のように見える痩せ細った部分はそのままで、てっぺんばかりが育っていくためどんどん頭部が重くなる。そのため彼女はうつむきがちになり、体全体がよろけてきてしまった。ほんの一年前までは「セクシーなサボテン」などと名付けてちやほやしていたが、よく考えてみたらこうなることは自明の理だった。
さらに今年の夏は長雨続きで、日照不足だった。7〜8月はわずかな日光にでもさらせば元気になるかとなるべく外に出していたが、すぐ雨になり気温も低くなるせいか、逆効果のようであった。
サボテンといえば、南国生まれの植物である。さぞかし太陽が恋しかろう。しかし天気ばかりはどうすることもできない。私にできるのはうつむいた首と傾いた体を支える棒を差し、見守ることだけだった。いつもうなだれているように見えるサボテンは、知識を蓄えすぎて頭でっかちになり、苦悩する秀才に似ていた。苦悩する秀才といえば、太宰治である。
私はこの夏、初めてまともに太宰作品を読んだ。かつて学生時代に読んだのは教科書にでてくるものぐらいだった。読むと暗い気持ちになると誰かがいっていたことや、かつての職場の先輩の家には文学作品がたくさんあったらしいが「子どもの頃、太宰だけは親が読ませてくれなかった」という話などを聞き、なんとなく避けていたのかもしれない。ちゃんと向かいあったこともないくせに、暗鬱とした作品というイメージがつきまとっていた。
読む気になったきっかけは、まあ人の影響とか、今年が没後50年だとかいろいろあるけれど、友人のお父さんの書棚にあった「パンドラの匣(はこ)」の初版本にまつわる、ご夫婦(友人の両親)の出会いのエピソードを聞いたからかもしれない。
それから他の作品も何作か読んでみたが、おそらくこの「パンドラの匣」が一番希望を感じさせてくれる作品であるような気がした。登場人物たちの言動が少し芝居くさい気はするものの、基本的に全体の雰囲気は明るい。療養所で過ごす青年の手紙で構成されているこの小説の主人公は、いつも“あたらしい男”になるべく考えを巡らしている。必ずしも幸せな人達が登場するわけではないのに読後感は爽やかだ。
なぜなのかなと考え、この作品が書かれた時期を知って、なんとなくその訳が分かった気がした。新聞連載の発表時期は、終戦直後。太宰自身も、家を失い焼け出された身だったらしい。おそらく、そんな暗い世相と自分の気持ちを鼓舞するべく、書かれたものだったのだろう。そして実際、友人のご両親のようにこの作品から希望を得た人もいたのだろう。どん底から這い上がってきたあとの人間は強い(もっとも太宰の場合、その数年後にまたどん底に落ちてしまったけれど)。そんなあれこれを考えて夏を過ごしている間、苦悩するサボテンは部屋のなかに避難させておいた。やはり外では寒暖の差が激しくよけい調子がおかしくなっているようだったので、室内療養を試みていたのであった。「セクシーなサボテン」などと呼んではみても、実際は朽ちかけの体を部分的にもちあわせつつ生きている植物なのだった。なんだか姿ばかりでなく、病気を抱えつつも生きていく人間に似ている不憫なやつだ。また、世話を怠ってそのような姿にさせてしまった私はずっとその罪を感じてもいた。
しかしどうだろう。いつからだったのだろう、苦悩するサボテンは苦悩することをやめ、すっくと首をあげていた。
私はその生命力に感激するとともに、植物にも療養は必要なのだろうと思った。人間も植物も、苦悩したことのないタイプはもろい。しかし彼女は苦悩の末、這い上がってきた。褒めてあげたかったが相手がサボテンでは握手することもできず、肩を叩くこともままならず、私はそのトゲだらけの頭を軽くなでてやった。妙に人間くさく思えるサボテンは、いまも私の部屋で生き続けている。※えーと、いとうせいこう氏のホームページでも今月サボテン話が書かれてますが、これは偶然なのですよ。いやホントに。去年は少し影響受けましたけどね。今年はホントにホントに偶然です。8月ごろからこのネタあたためてましたもの。
ま、それはおいといて、と。
今年の朝顔は一鉢に種を蒔きすぎたのか、日照不足のためか、花が非常に小ぶりでした。だいたい直径3〜4センチのかわいらしい花たちでした。なんだか昼顔みたいでしたねー。