1998
●映画「JANIS」を観て
●読書の夏/読書感想文なんてもの
●雑草の名前
●映画「オースティン・パワーズ」を観て
●映画「JANIS」を観て/(渋谷パルコパート3)/(8/8up dated)
レイトショーのみの単館上映。歌手ジャニス・ジョプリンのライブ映像を中心にした映画を昨日観てきた。
映画の最後にクレジットが流れ始めると、前列のほうでスクリーンに向かって拍手している人がいた。館内が暗いので誰が拍手の主かよく分からなかったけれど、位置からするとたぶん白髪の背広姿の男性だったのではという気がする。私もつられて思わず拍手したくなるほど、リアルなライブ感覚とシビレる音と声だった。特に、ファンたち(ちょっとゲイっぽい踊りかたの男性とかもいたりして)をステージに引っぱり上げ、みんなで歌い踊るシーンでは、実際のライブを目の前にしているかのような一体感を味わった気がする。気持ちが高揚する、楽しいラストシーンだった。以前観たウッドストックのビデオにはジャニスは少ししか出てこなかったし、これまで歌っているときの映像はあまり観たことがなかった。もっぱらCDで「声」としての彼女しか知らなかったから、この映画で、全身全霊で歌っている彼女の姿と声のパワーには圧倒された。歌詞の訳が字幕でついていることもあって、より一層、その歌の世界を近く感じた。これまでその歌声から激しさを強く感じていたけれど、「そうか、彼女が歌っていたのは寂しさや願いだったんだ」と思った。改めて、ジャニス・ジョプリンにゾクゾクと、また、クラクラとさせられてしまった。
これほどミユージック・フィルムで胸がいっぱいになったことはあまりない。「ローズ」や「ドアーズ」は感動的だけどあくまでも映画であるし、実際とは別物。かといって、ビートルズやウィングスやマドンナなど、本人が出ているいわゆる“歌手映画”は、ドキュメンタリーとしても音楽フィルムとしても中途半端で、観る側にとっては疲れるばかりで楽しめなかった。だけどこのミユージック・ムービーは、むやみに画面を切り替えず(実際はネタ映像が足りないというだけだろうけど)、インタビューはそれをちゃんと紹介し、歌は歌できちんと聴かせてくれる。しごくまっとうな、作りとしてはあまり面白みのない構成だ。でも、そうやって作為なく、“ぽん”と、事実だけを提供してくれたからこそ、こちらもすんなりと受け止められる。深く詮索することなく、ありのままの彼女を観て、聴くことができるのだ。スタジオで「サマータイム」をレコーディングするときの場面はおそらく意識的に挟まれたものなのだろうけど、歌に対する彼女の姿勢なども感じられる。
それにしても、歌っているときの笑顔に比べて、インタビューで故郷について語るときの表情はなんて寂しそうなんだろう。笑っているのに悲しんでいるように見える。受け止めてもらえない寂しさを、彼女は歌にしていたのだと思う。
ジャニス・ジョプリンはもう死んでしまった。だけど死んでしまったからすごいのではない。彼女が彼女だったから、すごいのだ。それは似たように若くして死んでしまった同時代のロッッカーたちも同様だ。そしてその“すごさ”は、これからも誰かの心を虜にしていくだろう。【ウッドストックの証人】
そういえば以前、仕事関連で知り合いだった方が、ウッドストックに行ったときの話をしてくれたことがあります。たまたま行った、みたいな感じだったらしいんですけど。話を聞いたときはウッドストックの何たるかをよく知らなかった私でありますが、今になってみると羨ましいなあ。いやあ、あれを実際に観た人の感動はいかほどであったことでしょう。その話をしてくれたおじさんは「あれ以来、ロックに引き込まれましたね。私は今でもやっぱりロックが好きですね」と言ってましたが、その人とロックって全然イメージ合わないんですよ。礼儀正しい、落ち着いてきちんとした人で。でも、そういうのってなんかいいなあ、と思ったりします。
●読書の夏/読書感想文なんてもの(8/14up dated)
読書の秋、と俗にいうが、誰がなんといおうと読書に相応しい季節は夏だ。その証拠に、各出版社とも夏のキャンペーンには相当力を入れているではないか。学生にも社会人にも夏休みというまとまった時間があるし、普段本を読まない学生でも「夏休みの読書感想文」という責務があるから、少なくとも数ページは読むだろう。
大人になってみて考えると、あんなもの無理やり書かせるなどということは本嫌いを増やす一因になるのでは、などとも思うのだが。自分の読みたい本を選ばせればいいのに、とも思う。それまで読んだことのなかった本を読むことができた、というメリットはあるものの、多くの場合、その記憶は遥か忘却の彼方である。私は学生時代読んだはずである12冊の書名をすべて思い出すことはできないし、書いた内容にいたっては殆ど覚えていない。私は読むのも書くのも好きなほうだったが、いかに受動的だったかがわかる。特に小学生のぶんは2冊しか思い出せない。夏以外は通年、マンガとシャーロックホームズ、SF、児童文学やら家にあった詩集ばかり読んでたしなあ。そちらのほうが楽しかった気がする。中学生、これも覚えとらん。部活ばかりしてたしなあ。印象深かったのは、小学生になって最初に書いたものと、高校生のときぐらいだ。
小学校 1年生、『おにたのぼうし』という絵本が課題図書だった。いわさきちひろさんの挿絵が可愛くて、私は何度も何度も読んだ。そのくせ今となっては話の細部までは覚えてないのだけれど、麦わら帽子をかぶった“おにた”というオニがいて、友だちが欲しくて、帽子にいろんな果物を詰めて男の子に届ける……っていうようなものだった。違ったかな? 最後は確か、おにたはいなくなってしまって、帽子だけ残していった……だったかな?(自信ないなあ。今度本屋で見てみようっと)
まあともかく、最後はどことなく寂しい終わり方だったのである。私は涙をぽろぽろこぼしながら読んだ、と記憶している。それ以来、私は麦わら帽子が好きになった。そして感じたままに初めての読書感想文というやつを書いた。それが、学年内だったか県だったか(えらい違いだが)で、どういうわけか「金賞」というものをもらってしまった。
「自分が思ったことを書いて褒めてもらえるなんていいなあ」と味をしめてしまったのはこの時からであろう。小学校にあがる前から絵本が好きだったが、もし最初の感想文がさんざんけなされていたら、私は読書も感想文も嫌いになっていたかもしれない。そして次にインパクト大ありだったのが、飛んで高校1年生。この年の課題図書は、大岡昇平の『野火』だった。現代国語の教師は「戦争の話だ、とにかく読んでみなさい」と、内容については多くを語らなかった。読み始めるまで私はあまり乗り気ではなかった。なんとなく面白くなさそうな気がしたからだ。でも、読み進んでいくうちに、強い衝撃を受け、夢中で先を読んだ。内容はご存じの方も多いであろうが、兵役下での人肉食を題材に取り上げた問題作だ。教科書には書かれていなかった戦争の描写に、私はとてつもないショックを受けた。当時、夏休みにバイトをしていたのだけれど、その休憩時間にも読んだ。しかし読み進むうち、感極まって目がウルウルしてしまうようになったので、家に帰ってから読むようになった。
自分が知らない戦争という事実が、教科書のなかの歴史としての認識から、大人たちの歴史というリアルな認識へ、ぱちん、とスイッチして切り換わった夏だった。人間の心を追い詰めていった戦争という現象に、物悲しい憎しみを感じた。亡くなった人達ばかりでなく、生き残った人達もまた被害者なのだと思った。
ただ感想文のほうは、どのようなことを書いたかあまり覚えていない。ただただ驚きと、わけのわからない怒りを書き連ねたような気がする。やがていつものように原爆投下の日と、終戦記念日がおとずれた。でも16歳の夏のそれらの日は、それまでのどの年より心に重く迫ってきた。高校2年のときは何を読んだか忘れてしまったが、3年生は、初めて自分で本を選んで書くことになった。タイトルは失念してしまったのだが、私が選んだ本は、ドラッグにはまった末にボロボロになって死んでしまう十代の女の子のノンフィクション(翻訳もの)だった。なんでそんな本にしたかというと、高校生になってから洋楽を聴き始め、それらに関する本なども読んでみると、必ずドラッグのことが出てくる。ドラッグのせいで死んでしまったミュージシャンも多数いると知った。死ぬほどのものなのに何故はまっていくのか、そんな疑問から読み始めた本だった。しかし感想文としてはまとめあげるのが難しく、単に“ドラッグはこんなに恐ろしい”という論調になってしまったのが我ながら不満ではあった。
この話にはちょっと余談がある。同じクラスの男の子(当時、片思いの相手であった)と感想文に選ぶ本の話題になり、私の話をしたら、「俺も同じこと考えてた」とびっくりされたのであった。思わぬ偶然に話は盛り上がり、読むのはいいけど書くのは苦手というその人に、調子に乗って感想文の代筆を申し出てしまった私である。
本当はその人のぶんをドラッグの本にしようかと思ったのだが、いろいろ相談してるうち「まかせるよ」と言われたので全然別の本にしてしまった。選んだのは、既に読んだことのある冒険SF『地底旅行』(ジュール・ヴェルヌ著)であった。男の立場から書くのには、こういうもののほうが書きやすかったからだ。他人になりきって書くのは初めてだったが、なかなか面白い経験だった。読書感想文を書くのがあんなに楽しかったことはない。なんだかんだ苦労して書き上げ、読んでもらうときはちょっと緊張したが、お世辞かどうか「この本読んだことないけどさ、感激しちゃったよ」などと言ってもらえた。どんな賞をもらうより、私にとっては嬉しいことだった。
先生が新学期に感想文を彼に返すとき、「●●がこういう本を読むとは意外だったな」といい、それを聞いて吹き出してしまった私を不思議そうに見た。確かに、元ワンゲル部でロック好きで長髪の彼が読む本としては意外だったであろう。
代筆のお礼にその人は「ラーメンおごるよ」と言ってくれたのだが、日にちが延び延びになり、結局約束は永遠にお流れになってしまったのであった。ラーメン一杯の約束で幸せになれた、純な年頃のエピソードである。ああ恥ずかし。そんなふうにして学生の頃に書いたはずのたくさんの感想文は、いま私の手元にほとんど残っていない。どうやら実家の引越しのとき自分で大方捨ててしまったようである。今になってみると少し残念なような、また読むのが恐いような。学生時代に読んだ本をまた読むときに、昔の自分がどんなふうに感じながらその本を読んだか、比較してみたかったなあと思う。全然進歩してなかったりしてね。
今年の夏は、学生時代に読んだきり(ほとんど内容忘れてる)だとか、読みそびれていた純文学作品とかを読んでみようと思っている。夏目漱石や永井荷風、太宰治など。学生の頃は、日本の純文学ってどうも好きになれなかったのだ。若いときに出会ってよかった本もいっぱいあるけれど、大人になったなりの読み方感じ方もあるだろうし。という、今年の読書の夏。他にも読みたい本や雑誌がたくさんあって、積みっぱなしになってるんだけどねえ……。
読書感想文? うーん、気が向いたら書いてみようかな。
※後日、本屋に行き絵本『おにたのぼうし』を立ち読みしたら、こないだぼんやり思い出していたはずの話とはちょっと違ってました。いちおうお断りしておきます。失礼をばいたしました。【今だからできる告白】
夏休みではなかったかもしれないが、中学のとき「たけくらべ」の感想文を書いた。しかしその感想は実は、原作ではなくマンガ「ガラスの仮面」のたけくらべの演技シーンを一読したときのものでありました。ははは。さっき押入からその時の作文が出てきて、思い出しました。先生はその感想文に“A”をくれていた(笑)。
美内すずえといえば、「ガラスの仮面」だけのように思われてますが、昔けっこう恐いマンガよく書いてたのですよ。姉が買ってきてたマンガで、6歳のときに読んで病みつきになりましたっけ。
雑草にも名前があることを、つい忘れがちになる。「世間」や「世代」という言葉で、個々の人間の存在を一般化してしまうのと同じように。
そんなことを思ったのは、ある家の生け垣を見たからだった。今の街に住んでもう数年経っているが、その生け垣の存在に気付いたのはほんの何日か前のことだ。そこは私の住んでいるエリアと反対の、線路の向こう側にある家だった。駅からはそれほど遠くない場所なのだが、歩いて図書館に行くとき以外はあまり通らない道沿いにある。しかも図書館への道筋は複数あるので、そこを通る確率は少なかったのかもしれない。
先週のこと、図書館からの帰り道にその生け垣の前を通り過ぎかけ、ふと足を止めた。竹で組まれた生け垣のあちこちからはみ出して、雑草や草花がぼうぼうと伸び茂っていた。ん、何だ今のは……と、視界の片隅にちらりと見えたものを見てみると、それらの草花に手製の名前札がそれぞれ付いているのであった。みずひき(たで科)、おじぎそう(まめ科)、月見草、どくだみそう、ふじばかま、ゆうがお、やまほろし、うらしろふじうつぎ、つゆくさ、やまのいも、あやめ、ひまわり……
とりわけ私の目をひいたのは「みずひき」であった。私が子どもの頃、空き地や社宅のグラウンドでよく見た花だった。花というか、米つぶ状の赤い固まりのようなものが細い茎にへばりついている植物だ。なんという名前かなあと思って、百科事典かなにかで調べた記憶がある。
月見草。ああ、この黄色い花もよく空き地に咲いてたなあ。どくだみそう。これは臭かったっけ。
紫の花をつけている「ブルーサルビア」や、薄紫の房状の花が可憐な「うらしろふじうつぎ」。これは知らなかったなあ。
……などと、名札と植物を見比べているうち、“雑草にも名前がある”という、当り前のことを再認識したのだった。知っていたはずだけど忘れていたものを思い出したのである。厳密にいうと雑草ではないものもそこにはあったが、花のない時期には雑草同様にも見える。植物を育てる人の多くは、家人だけでなく道行く人々にも楽しんでもらいたくて、外からも見えるような工夫をしがちである。門や玄関まわりに置かれたガーデニングの鉢などがいい例だ。そして雑草は目の仇にしてひっこ抜く。
しかしここの様子はそれとはちょっと違っていた。むろん、通行人に楽しんでもらいたいという気持ちは伝わってくるのだが。第一に、よくいえば控え目、さらにいえば地味である。花屋であまり扱っていない野の花のほうが多い。第二に、庭に背の高い木が2本ほどあるため、庭や玄関まわりが暗い。必然的に、光を求めて植物たちは生け垣の隙間から顔を覗かせ、道路側に迫り出してきているのだった。そして、それら植物はわざわざ植えたというよりも、種から蒔いたとか、風が種を運んできて自生し繁茂しているようである。でも家人は、雑草も含めて庭で育てている。それらに名札をつけているのは、通行人に名前を教えたいというよりも、“名もない雑草としてむしり取られないように”という気持ちの現われのような気がするのだった。
人間付き合いでも、その他大勢で名前も知らない人よりも、名前を覚えた人のほうが大事だったりするじゃない?
メモ帳に生け垣の植物の名前をメモしながら、そんなことを思った。機会があれば、この名札をつけた家人と話してみたいものである。
●映画「オースティン・パワーズ」を観て/脳天気なバカ映画、ブラボー!
/(atシネセゾン渋谷/8.26)身体を張った顔面ギャグ。それができる役者はかなりの大馬鹿者か、毎日50回は鏡を見ているナルシストだ。
一人二役。それを見事に演じ分けられる役者は、よほどの芸達者か二重人格者だ。
むろんこの言葉には愛情が込められていると思っていただきたい。そしてこの顔面ギャグ、一人二役を軽々と演じ、しかも脚本にまでちょっと参加しているというのが、主人公のオースティン・パワーズことマイク・マイヤーズ。私はこの映画を観るまで、彼の出演した他作品は観たことがなかった。それどころか、映画の元ネタである007シリーズは大昔にテレビで観たことはあるかもしれないが、ほとんど記憶にすらなかった。007のパロディ、「007/カジノ・ロワイヤル」も観ていない。つまり上映中は元ネタについての知識は皆無に近かったのだが、いやあ、あまりにもおバカな設定とベタな展開に、笑ってしまった。
でも、たぶんこの映画の随所に散りばめられていたであろう60年代の映画や社会背景へのオマージュを十分に理解していれば、もっとツボにはまっていたことだろう(後日、007の映像が掲載された本を本屋で立ち読みして、ドクター・イーブルの元ネタや悪の手先のキャラクターを見て思わず笑いがこみ上げてしまった)。しかし、他の観客たちが笑っていたのも私と同じようなところだったから、まあ皆さんも元ネタってそれほど知らなかったのかも。観客の多くは10〜20代前半って雰囲気だったしなあ。
そういえば昔、ロビン・ウイリアムズが主役の「グッドモーニング・ベトナム」を映画館で観たとき、日本人は全然笑ってないシーンのあちこちで、アメリカ人っぽい観客数人は腹を抱えて大笑いしていた。字幕からでは読み取れないスラングの可笑しさや、モノマネの元ネタや社会背景などを体験として知っているかどうかがその差なのでしょうねえ。まあ笑いの質の分析はともかくとして、とことん頭をカラッポにして観るのがいいのかもしれない。ビートルズの「ヤア!ヤア!ヤア!」を思わせる冒頭の追っかけっこシーン、ナイスバディな美女の60年代ファッションなどは見ていて楽しいし、とことん無茶なストーリー設定はあきれてしまうくらいだから。そうそう、それに音楽や昔っぽい効果音もかなり楽しめる。
しかしおバカななかにも、時には「おっ」と思うようなシーンがあったりする。
30年間、冷凍睡眠していた善悪(一人二役)の両キャラクターが巻き起こす行動は、時代差のギャップを笑うギャグであると同時に、現代社会への批判にも満ちている。たったの30年、といっても、生まれたての子どもがイイ年こいた大人になるまでに十分過ぎる年月だ。その間に東西冷戦は終わり、世界も変わった。イーブルの手下のナンバー・ツー(なんと名優ロバート・ワグナー)がイーブルに言う、
「あんたは世界征服しか頭にないが、もう世界などない。あるのは企業だけなのに」
なんていう台詞も、見事に30年間を一言で言い表しているよね。また、ニカッと歯をむきだしてエロギャグばかりかましているオースティンが唯一真面目なことを言う、終盤のシーンにこのバカ映画のテーマらしきものを私は感じた。悪役のドクター・イーブルとオースティンが“世界の滅亡”をかけて戦っているシーンでのことだ。イーブルは、60年代にオースティンたち若者の主義であったことが90年代では“悪”としてみなされているのは皮肉じゃないかね? と問いかける。それに対してオースティンは「いいや、僕らの敵はお前みたいな堅物、金と権力の亡者なんだ。僕らは純粋だった。性革命の結果を知ってたら、ああならなかった。でも精神は変わらない。求めてるのは自由さ!」と答えるのだ。自由。不自由が幅をきかせていた頃に意味をなした言葉。だからイーブルは続けていう、「自由は失敗した」と。それでもオースティンは反論する、「自由は健在さ、今は自由と責任の時代だ。イカスじゃないか」。
そんなふうなちょっとした真面目さは0.001%ぐらいで、残りはとことんくだらなくておバカなんだけど、やっぱり憎めない映画。世界の滅亡は阻止したものの悪役イーブルは生き延びて逃げてしまったし、なんとなく続きを匂わせる気がしていたら、やはり続編企画もあるらしい。こうなったら、007のうえをいくシリーズ映画にしていくのもいいかもしれないなあ。