霜月(November)

1998


●映画「ワイルド・マン・ブルース」を観て

●サボテンの養子たち

●しし座流星と眠れぬ日々

●酸欠クラブ


●映画「ワイルド・マン・ブルース」を観て
 /憎めない皮肉屋、ウディ・アレン
/(恵比寿ガーデンシネマ、11/4)

 ちょっと記憶があいまいであるが、小学校高学年かあるいは中学生の頃、深夜のテレビで兄がウディ・アレンの映画を観ていて、それを私も一緒に観たことがあった。確かあれは『ウディ・アレンの誰もが知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』だったと思う。あるいは『ウディ・アレンのバナナ』か。それ以来同じ映画を観た記憶はないのではっきり覚えていないのだが、けっこうお下劣な内容であった。そんなものを深夜、兄と妹が揃って観るとはいったいどういう家庭なのであるか。ま、そういう家庭だ。まあ何はともあれ、上の兄や姉が買ってくる「ロードショー」なんかの本を読んだりしてたためか、兄と私はふたりとも映画好きだった。それに家にはテレビが1台しかなかったため、一緒にテレビで映画を観ることが多々あったのだ。兄とはよくチャンネル権を争ったものだが、やはり年上だけあってチャンネル決定権は兄にあった。だからたぶんあのウディの映画も、兄が選んだのだと思う。
 ウディ・アレンの原体験がそんなふうであるから、彼がシリアスな映画を作り始めたとき、なんだか面白くないなあと思った。まあ、子どもだったからコメディのほうが好きな傾向があったのかもしれないけれど。
 最近はすっかり彼の映画もご無沙汰していたのだが、このあいだ中古ビデオで『何かいいことないか子猫チャン』と『ハンナとその姉妹』を買い、「ああーやっぱり私は、彼の映画はドタバタコメディのほうが好みかもしれない」などと思ったのだった。

 さて、そこで『ワイルド・マン・ブルース』である。これは彼の監督する映画ではないし、彼のジャズバンドツアーのドキュメンタリーなのだった。監督でも役者でもない、音楽人としての彼が見られる。これは是非見なくっちゃ、と映画館へ赴いた。
 ところが、映画のなかに“真実の彼”を探すのは大変なことだった。どこまでが本当の彼でどこまでが演技なのか。新妻のスン・イーとの会話のやりとりまで、まるで彼の映画のよう。そのうえ、面白い。会話の端々に、ジョークとオチをつけなければ気が済まない感じ。カメラを意識していっているのか、それとも万事がその調子なのか。そして対するスン・イーは、子どもに接する母親のような顔と態度さえ見せる。ウディのほうが駄々をこねている子どものように、愚痴りまくる。これはもしかすると、この夫婦の穏やかな信頼関係をPR するためのプロモーションビデオであるというような気さえする。
 しかし、クラリネットを演奏するときの顔だけは真剣そのもの。練習は1日も欠かさない、と車のなかで一人クラリネットを吹き続けていた姿、あれはカメラを意識していない彼そのものであったと思う。熱烈な歓迎を受けるヨーロッパ各地のステージで、目を閉じ、全神経を演奏に集中している彼は音に誘われるままに、爪先でリズムを刻み、頭を振る。その瞬間だけに、唯一演じていない、真顔の彼がいる。このときばかりは頭のなかにジョークは浮かんでいないだろう。

 なぜニューオリンズジャズをやっているか、と語る姿もあった。子どもの頃ラジオからいつも流れていたのがニューオリンズジャズだった、聴くとその頃のことを思い出すのだ、というようなことを、懐かしむように語った。そして、彼はこうも言う、「もう誰もニューオリンズジャズなんてやりゃしない。誰もやらないからやるんだ」。音楽について語るときの彼は、実直でジョークも言わない。彼にとってその音楽は宝物であるのかもしれない。これは想像だが、四六時中あちこちに神経をつかってるような人であるから、演奏することで得られる無の境地が絶対的に必要なのではないだろうか。
 それと、やはり子どもの頃の原体験というのは大きいであろう。私が子どもの頃に初めて観たウディ映画が、その後の印象の方向づけをしたように。だが、それにしても15歳から60歳(だったかな?)まで、クラリネットの練習を続けているというのもすごい。勤勉と努力の人、である。

 最後に極めつけはご両親の登場。今の彼があるのはこの両親あってのこと、とわずか十数分の家族の会話シーンで納得してしまうのだ。顔も親子だから当然似てるのだが、ご両親の性格を両方受け継いだのがウディであろう。ツッコミの母親、天然ボケの父親。特に父親のオトボケぶりは、じわじわと利いてきて長いこと思い出し笑いしてしまった。この親にしてこの子あり。妙に納得して、ウディが愛すべき皮肉屋に思えてきた。
 子どものときに彼の映画を初めて観たとき感じたような面白さだった。いや、もしかしたらそれより面白かったかもしれないな。
(11/22 up deted)

※2週間以上たって今ごろのUPであります。いやいや。今後の目標、1週1本。さて次回はわが家にやってきたサボテンの養子たちのお話の予定。今度こそ数日中にupいたします(汗)。


●サボテンの養子たち

 近所にいる唯一の友人Oの招待を受け、今月なかばのある日、彼女のマンションにおじゃました。彼女は熱心な園芸家でもあったので、自慢のベランダを見せてもらうのも楽しみだった。
 部屋のなかには、春に向けた準備としてのヒヤシンスやクロッカスの水栽培球根がいくつも置かれていた。南向きのベランダはぽかぽかと暖かかった。季節的にそれほど花が開花している時期ではなかったが、所狭しと数々の鉢が並んでいた。そのなかでひときわ目だっていたのが、およそ1メートルはある木。葉が生い茂った枝々の先には、ラッパのような形をした白い花がいくつも咲いていた。あまり見たことがなかったなかったので「なんていう木?」と尋ねると、ダチュラだという。「あーこれがー。毒持ってるんだよねー、これ」と言うと「へー、よく知ってるね」と彼女。悪い冗談で、「旦那に一服盛ろうとしてる?」などと不届きなことを言ってしまったが、彼女も「実はー」などと笑いながら答える。毒を持つイメージがよくないようで、普通は“エンジェルス トランペット”などと可愛らしい名前で呼ばれているようだ。確かに、白く細長いラッパのような形の花は、その名に相応しい。花は甘くいい匂いがするが、花にも毒があるらしい。だから、しおれた花を摘み取ったあとはいつも手を洗うと彼女は言っていた。

 彼女はかなり昔から園芸が趣味でいろんな植物を育ててきていたらしい。その成果を記録した写真をいろいろ見せてもらった。育てるのが難しいといわれるシクラメンも、見事に成長させていた。春にはクロッカスやチューリップの乱舞。南向きで日当りがいいベランダなので、あたたかいところの植物が向いているようだ。写真のなかに、ラッパのような花をいっぱい咲かせたサボテンがあった。花は日光を求め、ベランダの外柵に向かってひょろひょろと長く伸びていた。ちょっと恐い気もするが、花の多さに驚いた。
「こ、これすごいねー。サボテンの花って何年かに一度しか咲かないんでしょ?」と訊く私に、
「えー、うちのは数年前から毎年咲くよ」と友人は答える。
 そうなんだー、とさらに驚く私の前に、実物を持ってきてくれた。花の時期は夏で、もう終わっていたが、花の名残の芽のようなものが残っていた。もうかれこれ10年ぐらいは育てているというそのサボテンは、まるまると太っていてトゲも立派。2鉢あり、いくつにも株分かれしているが、いちばん大きい株はおよそ15センチほどの直径。それ以外の株も、直径10センチ前後の貫祿。かなりどっしりしたサボテンファミリーだ。そして、いちばんの大もとであるという親サボテンの根元には、いくつもいくつも、数センチ前後の小さな子サボテンたちが生えているのだった。
「へー、かわいいー」といってしげしげ見ていた。やや大きな3センチほどの高さのものが、3年目ぐらいのものらしい。1〜2センチほどのが、1年もの。それよりさらに小さく、ほとんど真ん丸状態の、ウニのようなやつらもうじゃうじゃと生えていた。
「へー、ここまで大きくなって子サボテンができるのまで10年ちかくかかるんだ。うちのサボテンがこんなふうになるのはいつかなあ……」
などとつぶやく私に、「よかったら持っていかない?」と突然彼女は言った。最初は遠慮していた私であったが、「いいのいいの、どんどん増えてくるから」と言いながら、彼女はワリバシを持ってきて次々と子サボテンをつまみ、小さな紙箱のなかにポイポイ放り込み始めた。私としては5個ぐらいのつもりであったが、彼女のポイポイは止まらない。あれよあれよという間に、箱の中味は20個以上になっていた。まだ手を休めなさそうな彼女に、さすがに私は「も、もういいよー」と言った。
 あれこれと話をしていてすっかり彼女のところで長居してしまい、昼食からお茶、その果てに夕食までご馳走になり、サボテンの養子までもらってしまった。自分の部屋に戻って紙箱のなかの子サボテンたちを取り出す。マリモのようにコロコロしたそいつらは、わずか数ミリの根を生やしている。そんなわずかな根で、さっきまで親の根元の土にへばりついていたのだ。小さな体に秘められたその不思議なたくましさに感心しつつ、今度サボテン用の土と鉢を用意しなければと考えた。これだけの養子たちを養うには、うちの親サボテンたちの一鉢では狭すぎるからだ。
 いきなり養子たちがたくさん来て戸惑ったであろう親サボテンであるが、もとセクシーな体格であったサボテンは、急に養母になったのだった。すると、彼女の隣の太めサボテンの存在は、父ということか。突然の養子騒動に、私の認めるところにより入籍してしまったサボテンカップルであった。サボテンファミリーの誕生だ。
 それにしても、子だくさん過ぎる。3つ子や5つ子ならまだしも、27つ子である。私は里親探しを始めた。そして何人かの人に里親になっていただいた。有無をいわさずプレゼントしてしまった感があるが、里親の方々、そんないきさつなのでどうかお許しいただきたい。10年後、わが家を始めどこかのベランダでも花を咲かせるまで育つことを祈りたい。
(11/27up)


●しし座流星と眠れぬ日々(11/17〜その週)1998

 33年に一度のしし座流星群の到来、と新聞やテレビで大騒ぎしていただけあって、世間ににわか天文ファンがわんさか溢れたようであった。人は一般的に期間限定ものに弱い。かくいう私も、33年に一度のこととあっては放っておけぬということで、はりきった。

 思い起こせば数年前に、土星の輪が真横から見えるために、輪が消滅したように見えるという年があった。それも確か60年ぐらいに一度ということで、「今後たぶんもう見られないであろう出来事」見たさに渋谷のプラネタリウムで開催された観測会に参加し、ビルの屋上に備え付けてある天体望遠鏡で土星を見たものだった。
 そういえば、土星の輪を初めて見たのは高校1年生のときだった。実は、何を隠そう(別に隠していたわけではないが)私は、高校1〜2年と地学部に所属していたのだった。別に天文ファンだったわけではない。ただ、ギリシャ神話などの星座の織り成す物語や宇宙の不思議には小さいころから関心があったのだ。それに小学生の頃、「考古学者になれたらいいなー」などと大それたことを考えたこともある。でも入部した一番の動機は、かなりいいかげんなものであったが、部活紹介のときに素敵な先輩がいたというだけである。中学のときと同じバスケット部にはもう入る気はなかったし、文化系ならどこでもよかった気分だったのだ。仲の良い同級生たちも何人か、私と同じ動機で入部した。そんな不純な動機の私たちと違い、先輩たちは本当に根っから天文や地質学が好きなようであった。地学部の活動といっても普段は何もすることがなく、もっぱら不定期の合宿がメインのものだった。夏には秩父の民宿で合宿をし、砂金のようなものを採取してみたり、夜の河原で流れ星を眺めたりした。何か月かに一度は学校で天体観測合宿があり、顧問の先生のお墨付で、校内で徹夜合宿をした。しかしその頃から私は雨女だったのか、雨が降らないまでも曇ることが多く、空が晴れるのを待って屋上でテニスしたり、地学室でトランプなどをしていたものだ。「晴れた!」となると屋上へ戻り、望遠鏡を覗いた。そして、初めて土星の輪と、表面の縞模様を見た。あのときは感動したなあ。徹夜ぼけで疲れ切り、みんなで自転車に乗り朝帰りをする途中、ミスタードーナツへ寄ってコーヒーを飲んだのも懐かしい。

 とまあ、そんなこともあった。流れ星もあれからほとんど見ていない。数年前にその土星の輪の消滅を見て以来、最近は望遠鏡なんてほとんど覗く機会もない。第一、こんなに住宅が密集している環境で望遠鏡なんか覗いてたら、のぞきと思われても仕方がない。
 今年のしし座流星群はすごいと聞いてたので、どこか山奥とか周囲が暗いところにでも行こうかと思ったが、たまたまその時期は仕事が忙しく、夜中に出かけるのは無理そうだった。夜中に散歩できる距離でしか見られそうにない。まあ、都内でも肉眼で見えるという噂だったし……。そこで当日、夜帰宅してから、観測最適時間といわれていた午前4時に備え、仮眠することにした。しかし帰宅したのが11時過ぎ、寝るのが2時過ぎになってしまった。果たして……目覚めると5時半を過ぎていた。あわてて外に飛び出してみたが、すでに空は明るくなりかけ、南の空に明るい星がいくつか見えているのみ。がっかりである。
 意地になった私は、翌日再チャレンジを試みた。しかし。前日の睡眠不足がたたり、夜明けに起きるどころか、目覚めると午前8時。あわてて跳び起き、走って仕事へ行ったのだった。いや、久しぶりに朝からよく走った……。
 さらに意地になった私は、また次の日しつこくチャレンジ。もちろん夜中もしょっちゅう外に出て空を見上げていたのだが、うちの周囲は夜通し街灯や建物の灯りがついているため、星が見えにくかったのかもしれない。ようやく3日目にして夜明けに起きることができたが、流星は見られなかった。ピークをとうに過ぎていいるのは承知していたけれど、少しでも名残が見られればと思ったのだが……。
 くやしいことに仕事の忙しさとかぶってたのはその週だけで、翌週はひまになってしまった。あれだけ睡魔と格闘したのに……ふん。お星さまのいじわる。流星に振り回されっぱなしの1週間だった。
 だが、どうやらしし座流星群は来年も見えるらしい。来年こそは……。と思う私であった。そうそう、それに今度、12月の12、13日には双子座の流星群も到来するらしい。ちょっとまた頑張って流星ウォッチングしてみようかな。私、双子座だし。
(12/1up)


●酸欠クラブ(渋谷某クラブ/いとうせいこう氏ほか出演、11/22)

 その日はずっと前から楽しみにしていた日であった。渋谷の某クラブに、いとうせいこう氏が出演して何かやらかすらしいということで、数週間前からある筋でインターネットを通じて情報交換がなされていたのであった。そしてそのある筋では、まだ一度も会ったことのない人々同士の間でメールが飛び交い、現地で会う約束が交された。これまでインターネットでの知り合いの方たちとは会ったことがない私であるが、ちょっと楽しみだった。そのイベントには私の友達は誰もつきあってくれず、それにクラブなんかに一人で行く度胸もなかった私には、同志がいてくれることがとても有難かったのである。

 1か月前に予約してしまっていた“紅葉の昇仙峡(山梨)バスツアー”とその日ダブルブッキングだったが、夜の予定が楽しみだったのではりきって5時に起きる。睡眠時間2時間未満であったが、妙に浮かれていた。しかし3連休ということで道路は渋滞しており、タイムスケジュールは午前中からかなりずれてきた。峡谷に着くまでにすでに4時間かかっていた。少なくとも夜8〜9時には東京に戻りたかった私は、予定のずれ込みが気になり、昼頃からすでにそわそわしていた。どんどん時間が押して、見学予定の行き先はすでに数ヵ所カット。昼食時間もずれ、ワイナリーでの工場見学もカットで、ワイン試飲のみ。でも私としては試飲だけのほうが有難い。紅葉もそれほど綺麗ではなかったが、文句はいうまい。だが、あきれるほど美味しくなかった“マツタケご飯食べ放題”の昼食を終えると、もう時間はすでに3時半……。予定ではそれからまだブドウ園行きがあるのだった。夕方5時前後に甲府近辺出発だとしても、連休渋滞にひっかかると帰りの時間はかなり遅くなりそうである。添乗員さんも、「何時になるか分かりません」と言っていた。私としては、これでもし初対面の皆さんと会えなくなってしまったら、ものすごーく後悔するだろう。同行者の友人ヒロも、もう帰ってもかまわないと言ってくれたので、私たちはバスを降ろしてもらって石和温泉駅から電車で帰ってきてしまった。鈍行の車内はすいていたのでのんびりとできた。あー、なんのために早起きして行ったんだか……乗り物に乗ってた時間が一番長かったよ。息抜きの日帰り旅行のはずがとんだツアーになってしまった。

 まー、電車で帰ったおかげで余裕で間に合った。その日のクラブイベントについて店で聞いてみると、数名のゲストたちが交代で出演するため、目的の時間帯までにはかなりの間があった。一人で店内で待つのはちょっと気がひけて、他の人達が待ち合わせするといっていた場所が見えるところで待つことにした。22時過ぎ、初顔合わせの人達数名と会うことができた。私以外の人達は電話でやりとりもしてたらしく、会う前からもうすでに知り合いのような感覚になっていたようだ。店内でもさらに初対面の方たち数名と会い、挨拶をかわす。
 それにしても、会場であるクラブはものすごく狭かった。店内が暗くてよく分からなかったけれど、フロアはおそらく20畳未満だったのではないだろうか。だんだんお客も増えてくるし、ほんとに大丈夫なのかなー? と思いつつ、いとう氏出演時間の少し前にフロアに入っていた。DJの人が一人でブースに入り、プレイを続けていた。出演時間が近づくにしたがって、フロアには人がどんどん増えてくる。ちょっとやばいんでない? っていう人数になってきたような……。

 やがていとう氏がその人込みをかき分けて入場してきた。その頃、入口では入場制限が始まっていたらしいが、フロア入口近くにいた私の感覚だと、始まってからしばらくの間はまだまだ押せ押せで入場してくる人がたくさんいたような……。そうやって店内押しくらまんじゅう状態のまま、ライブ開始。以前ほかのところでも行なったと噂の、“朗読ラップ”(あえていうなら、そういうものかな?)をやるようであった。いとう氏自身の著作(主に小説)が何冊か手元に置かれ、DJ音楽に合わせた朗読が始まった。最初にポルノ系の『虚勢訓練』を持ってくるあたり、狙ってたのかどうか、フロアの暗さと相まってなんだかとっても怪しい雰囲気が漂う。普通の朗読ペースから、やがて『豊かに実る灰』、『イスラムの言葉』とリズムは変化しつつ加速しつつ、イスラムの祈りの言葉が繰り返し歌うように読み上げられると、フロア全体はなんとなく信徒と教祖の集まりのような関係を帯び、興奮が異様に高まってくる。このあたりからはじけてる人達が多い。そして『解体屋外伝』はもう完璧にラップミュージックそのものに。観客もノリノリで、もうみんなかなりハイな状態。このような小説の読まれ方がかつてあっただろうか、と私も興奮を覚えていた。特に、「暗示の外に出ろ! 俺たちには未来がある!」ってリフレインするせいこう氏と、それに応える客たちの呼応のテンションは、トリップ寸前って感じ。あとである人がいってたけど、あの時のフロアはかなり酸欠状態だったと思う。人に押されて空気も薄くて、かなり頭がぼーっとしてた気がする。なんだか記憶がところどころ飛んでるような……。どのようにエンディングへ向かったかよく覚えていないのだが、ラップが終わるとDJはフリッパーズギターの『恋とマシンガン』をかけた。まだテンションが高かった我々は誰からともなく歌い始め、大合唱となったのだった。

 やがて曲も終わり……ぼーっとしていると、次のゲストであるピチカートファイブの小西氏がいつのまにかDJブースに入ってきていた。しかしフロアはまだぎっしり人で埋っていた。次のゲスト目当ての人々がきっとそろそろ入ってくる頃。いとう氏、人波をくぐり抜け退場を試みる。しかし人波に押されなかなか出られない。入口近くの私も、入ってくる人と出ようとする人の無秩序な流れにもまれていた。いとう氏、強引に外へ脱出。フロア奥の人々も、濁流のようにどわーーーっと外へ……。私はバーコーナーのほうへと流されそうになりながら、必死の思いで柱につかまり、やっとの思いで外へ脱出。あーすごかった……。全身汗びっしょり、洋服よれよれ。こんなに体を張ったライブは初めてだった……。でもちょっと危なくて心地いい。頭の奥が痺れるような、初めて感じる不思議な感覚。麻薬のいらないトリップ状態? 狭すぎるあの状況が生んだ異様な雰囲気のためもあったかもしれない。

 終わったのはもう終電のない時刻だったので、その日会った人達と夜明かしすることに。総勢7名の女たちは初対面にもかかわらず意気投合し、深夜のファミリーレストランで朝まで過ごした。趣味が近いので話も盛り上がり、ちょっと盛り上がり過ぎたのか長居しすぎたのか、1軒目を追い出されて(?)しまった。笑い過ぎてたかな……でも女たちを夜明けの寒空に放り出すなんて、そりゃないぜー。2軒目で始発までの1時間をさらに過ごすが、もうみんなかなり眠かったとみえて意識せずとも静かめであった。
 そうして電車が動き始めた頃、彼女たちと別れを告げ、ほぼ2日間徹夜のボケボケ頭を抱え家路に着いた……。いやー、でも本当に楽しい夜明かしだったよ、ご一緒した皆さん。ありがと。それにしても忙しい1日だったけど……文句なく今年一番の夜だった。
(12/3up)


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