1998
●映画「ガタカ」「大いなる遺産」を観て
/なぜかイーサン・ホーク主演映画2本立てを観る
(at 飯田橋ギンレイホール、10/7)映画の日ということで、劇場映画割引の日。さて何を観ようかなと思いながらぴあをめくってみて目についた、飯田橋ギンレイホール上映のイーサン・ホーク主演2本立て、「ガタカ」と「大いなる遺産」。別にイーサン・ホークが特に好きというわけではないが、どちらも以前観ようと思って見逃してしまっていたものであった。こういうときの2本立ては嬉しいものである、ということでこれに決定。観たい映画が久々に揃った2本立て観覧だった。
ところでイーサン・ホークって、割とハンサムで爽やか系だとは思うのだが、どうもいまひとつぱっとしない気がする。そりゃファンはいるのだろうが、一般的にはまだまだ認知度が低いのではないだろうか。単に出演作が大きな話題にならないだけだろうか。でも、出演作の傾向は私好みではあるのだけどねえ。以前雑誌のインタビューで、確か、出たいと思った作品にしか出演していないというようなことを答えていた気がする。まあ彼にしてみたら日本で受けようが受けまいが知ることではないだろうが、本国では人気はどうなのでしょうね。
しかし2本を観て思ったのだが、役柄がどちらも“いい人”すぎるなあ、と。まあたまたま映画の主題によってそういう役柄だったのかもしれないけれど、なんか感情が激してキレちゃうところとか、そういうアブナイ面も見せてもらえたりしたら、けっこうもっと好きになれたかもしれないなあ。オーバーな演技とかそういうことじゃなく、そういう演技もできるんだよってところが判ると面白いんだけどなあ。
---------------------------------------◎「ガタカ」GATAKA
遺伝子操作による出産が当り前となった、近未来の話である。選ばれた遺伝子によって生まれる優秀な子どもが増え、生まれた時点ですべての身体機能の可能性がデータにより予測され、寿命まで判る……という設定なのだが、なんだかこれって近い将来、現実的にありえることのような気もしてしまう。そのような時代、自然出産で生まれた子どもは「不適確者」として扱われ、社会的に差別され、職業も自由に選べない。その不適確者であるイーサンが、身体的には無理とされるロケット乗務員としてのエリートコースに密かに潜り込む……というもの。
近未来SFものにしては派手なSFXシーンもあまりなく、どちらかというと人間心理の表現に重きを置いた映画だ。でもそこがワタクシ的にはけっこう好感度大。データを優先し信頼するエリート至上主義のシステムの裏をかき、自分の夢の実現のためにはどんな手を使ってでもやりとげる……というストーリー上で、単なるエゴだけではなく、そこにからむ様々な人間のコンプレックスや心の葛藤が描かれているところがいい。それらが複雑にからみあいながら、主人公の行く手を阻みつつ、最後にはそれぞれの糸口へとほどけていく。その過程で何重にも意外なエピソードが仕掛けられている。ここらあたりで正体がバレるかどうか、という快い緊張を感じつつ、「おーし、いけいけっ!」などと心の中でエールをおくりながら観てしまった。
生まれたときからすべてが決めつけられた人生なんて、どんなにかつまらないだろう。でも、現代の子どもたちが置かれた状況は少なからず似ているかもしれない。「ふん、決めつけんなよ!」って反骨精神、忘れるなよーと思ったりして。自分に言ってるような気がしながら、人間には可能性ってものがあるんだよ、なんてけっこうクサイことも改めて心でつぶやいたりして。大感動はしなかったけれど、じんわりとした爽やかさが心に染みてくる映画。
この映画の共演がきっかけで結婚したというユマ・サーマンとイーサン・ホークがふたりで、明け方の空を見上げるシーンはなんだかよかった。空へ飛び立つロケットを、それぞれの思いを秘めて見上げる二人。別に宇宙映像を使わなくても、SFというものは成り立つのだよ。スピード感やスリルを求める人には退屈かもしれないが、じわじわとしたちょっとじれったいくらいの展開がお好みの人はハマるかもしれない。
----------------------------------------◎「大いなる遺産」GREAT EXPECTATIONS
作家・ディケンズの小説を映画化したこの作品、私が以前読んだ映画評ではけっこう高めの評価だった。だからというわけじゃないのだけど、少なからず期待はあった。でも、思ってたほどではなかったな、というのが観終わったあとの印象。ここでも“いい人”イーサンはやっぱりいい人で。のちに画家として成功したら“悪い人”に少しは変わるかと思ったらやっぱり最後までいい人。まあいきなり人格変わるっていうのもあまりにもベタな展開なのでそれはそれでいいのかもしれませんが。その一方で、“悪い人”だったロバート・デ・ニーロが実は……っていうのもなんだかなあって思うのであった。
いい人・イーサンを翻弄するヒロインの行動にはちょっとイライラさせられるし、ストーリーの随所でもたついた感じはあるけれど、まあ全編を通した美しい映像はそれを補う力がある。ヒーロー・ヒロインの出会いの場である古びた屋敷、そこから眺める海、新進画家としてイーサンが描くアートなどは観ていてなかなか面白い。
少女時代と少年時代の子役たちもいい味出していて、特に女の子が妖精みたいにキレイ。彼等の成長につれ年をとっていくメイクがちょっと恐いベサメムーチョなおばさまも、出演者はなかなかインパクトある方々であるし。主人公たちが子どもの頃に出会ってから大人になり、さらに紆余曲折を経てたどり着くラストシーンまでの道のりは、途中ちょっとまどろっこしいところがあれどなかなか壮大な物語。
でも結局、この映画の主題って何だったのだろうと思ったりもする。それまで人の思惑がらみで生きてきた二人が、それぞれの呪縛やしがらみから解き放たれて、ようやくたどり着いた真実……人が残してくれたものではなく、自分たちで作り上げていく……っていうようなところだろうか。あとから考えるとちょっとそのへんがどうもすっきりしなかった。結果的に、作中で使われていたアートや淡い色調の映像ばかりが印象に残ってしまっている。(10/16up dated)
●最近ビデオづいていて、よく深夜まではまっています。すっかり忘れてる名作、去年あたりの話題作などなど、観だすと止まりません。久しぶりに観た「タワーリング・インフェルノ」、「アラビアのロレンス」はよかったなー。ヒッチコックものも久々でした。いけません、ほかにやることがいくらでもあるはずなのに。でも、ときどき当たりにあうとささやかな嬉しさが。先日はあんまり期待せずに観た「グッド・ウィル・ハンティング」にけっこう泣かされてしまいました。毒のないロビン・ウイリアムズはちょっと物足りなかったけど、マット・ディモン坊やが意外といい味出してましたね。
●「14歳の国」を観て(作・演出:宮沢章夫)/青山演劇フェスティバル〜悪の演劇〜/遊園地再生事業団/演劇(at 青山円形劇場. 10/9)
■普段あんまり演劇は観ない私であるが、宮沢章夫氏のつくる芝居には魅かれるものがある。昨年に宮沢氏が演出した「会議」を観て、“あざとくない芝居”というものにハマってしまったのだった。そういえば去年のその感想はもっと書くつもりだったのだが、芝居内容にまで話が及ばぬままになってしまっていた。それから早一年も経ってしまった……。でも、あのとき初めて私は“魅力的な芝居”というものに巡り会ったと思ったものだった。それはたぶん、宮沢氏が「わざとらしい演技に恥ずかしさを感じる」という感性に近い感覚を私ももっているからだと思う。しかしそのわりには今年に入ってからの公演は見逃してしまっていたが、今回のテーマは面白そうだなと思った。フェスティバル期間中、何人かの脚本家たちによる芝居が上演されるが、共通テーマは「悪」。宮沢氏は「14歳の国」という演目を、子ども役がひとりも登場しない大人の世界だけで演じようということだった。14歳というキーワードから導かれる“悪”に、がぜん興味が湧いた。
■しかし観終わってからというもの、しばらくこのための文章をなかなか書き始められずにいた。なんというのか、感じたこと、考えたことが混沌として自分のなかでなかなか整理がつかなく、すっきりしなかったのだ。ついつい去年の神戸の事件にまで考えが及んでしまったり、その後の社会反応にからむ世相まで考えてしまったりするのだった。しかしあの芝居を、宮沢氏自身がいうように「これはけっして、教師の話ではない。教育問題なんかでもない」と捉えるならば、少し気は楽になる。あれは単なる芝居なのである。そしてここは私の雑記ページなのである。整理はついてないが、書くことでこのもやもやとした気分を残しておきたいとも思う。ならば感じたことを未整理のままでもあえてそのまま書き留めることにしよう。
■机と椅子が整然と並ぶ舞台では、5人の教師が生徒の持ち物検査を行なう芝居が展開されていく。生徒たちが体育の時間でいないときに、検査はこっそりと行なわれる。ふと思い出したが、私が子どもだった頃、こっそり子どもの持ち物を盗み見る親や大人に、嫌悪を感じたものだった。私的な感情からすると、物語の発端からすでに登場人物たちは悪意に満ちた世界に置かれていることになる。公然と行なわれない持ち物検査で、教師たちは何を見つけようとしているのか……。正直いうと、私は終盤までそれに気付かずにいた。生徒の鞄からつぎつぎと出てくるCDやら薬、ノートに書かれた14歳の自分史……それらをめぐる教師同士の台詞のやりとりに、いろんな示唆を感じてはさまざまに思いをめぐらしていた。
■14歳という年齢は、果たして子どもと言い切れるのか、微妙な年齢であると思う。しいて言えば少年、少女だろうか。肉体的には大人への準備を着々と整えつつはあるが、精神的にはいくら大人ぶってみてもまだまだ幼いところがある。その両面のアンバランスさを抱えた、あやうい年齢なのではないだろうか。私自身はどんな14歳だったのかと振り返ってみても、「早くひとりで暮らせるようになりたい、でも大人になんかなりたくない」という自己矛盾を内に抱えた、アンバランスな人間だった気がする。
■(公演は終わったので内容に触れてもいいですよねえ? でも今後神戸公演をするかもといっていたので、もし観る予定の方がいましたらこれから先はネタバレがありますのでとばしてください)
いろんな台詞が心にひっかかった。例えば……「14歳で自分史ねえ……14歳で自分史なんてかくかね、普通」。
また、不登校になった生徒が「こんな小さな机じゃ勉強できない」と言っていたという話をして、その机に座ってみた学年主任が、「確かに小さいな」と言う。その一方で、「でも、せまいからこそ気をつけなきゃいけないということを学ぶのも学校じゃないでしょうか」ともっともなことを言う。
あるいは、なかなか開かずに苦労して開けた鞄には、何も入っていなかった。「からっぽだよ」「そのことに意味があるとしたら“メッセージ”ですか?」。
またあるいは、なにかと話題にされた花瓶について、「不思議だったんです、花瓶があるのに、どうして花を飾ろうとしないのか」。
そしてテレクラの電話番号が書かれたメモ、教師への悪意を刻んだ机の落書き、顔が傷つけられた写真などが見つかり……ひっそりと行なわれてきた持ち物検査はここへきてにわかに重みをもってくる。「見ちゃいけないものを見た気がする」。
さまざまな物を通して、そこに存在しない14歳たちを取り巻く問題が浮かび上がっていく。それを生徒の側に立って(立ったつもりになって)分析しつつ、自らの子どもの頃のことを思い出したりする教師たち。そのやりとりに、ふうむとうなずいたりしながら観た。私自身も大人と子どもの間を行ったり来たりしながら。
しかしこうして書いているとやけに真面目な芝居のように思えるかもしれないが、実際は微妙な会話のズレの可笑しさが折り込まれたものである。途中少しダレた感じはあったけれど、物を単なる物として終わらせずに、そこにいない中学生たちの姿を想像させる演出はなかなかである。■ここまで書いてきて気がついたのだが、一番もっともらしい台詞をあれこれ言っていた教師(松竹生氏)が一番“悪意のない悪”をもつ存在に転じる展開だったのは、現実社会なんかと照らし合わせると象徴的な気がする。結局、持ち物検査の結果、とうとう出てきたのはナイフだった。そこで、子どもの気持ちを考えよう考えようとしていた“一見ものわかりのいい教師”が、“悪意のない大人”として最も子どもっぽい存在となる。ナイフの使い方を知らない大人が、それを何気なく試すことで仲間を刺してしまう。そこで脳裏に浮かぶのが、例の神戸の事件のことだ。ああ、そういうことだったのか。大人たちが演じる14歳の国とは。淡々とした展開に騙されていたが、やはり大人たちの側にこそ“悪気のない悪意”があったのだった。子どもの問題に見えることは、実は大人のほうに要因があるのでは……とまで思い至らせる展開だった。
■結局、現実社会では大人は大人を、子どもは子どもの役割を演じることが自然であり当然なのだろう。などということまで考えてしまったりした。だが最近はその役割があいまいになってきている。子どもっぽい大人、大人ぶってる子どもがなんと多いことか。そして、子どもじみた手口の、大人の犯罪が多い。「あの人が」というような真面目な人が犯罪をおかしたりする。その逆に、子どもも大人並の犯罪をおかす……。大人と子どもの境界がどんどん曖昧になってきている気がする。そして現実と虚構の境界も曖昧になっていくのだろうか。
いまの子どもたちが直面しているさまざまな問題の根源は、大人たちの側にあるのだということを大人はもっと自覚しなければ……と思うのであった。
いろいろなことを考えさせられた舞台だった。■のほほんとしたムードで笑いをとる温水洋一氏、いい味出していた。他の皆さんの抑えた演技も個人的には好き。
■これだけ書いてもうまく表現できなかったけれど、この芝居のおかげで自分の14歳の頃のことやいろんなことを考えた。感動した、ではない。考えさせられた。対象にそう感じさせる創作のありかたというのもまたいいなあと思った。
※蛇足:この演劇にぜんぜん関係ないことですが、いまやってるテレビドラマ「奇蹟の人」の山崎まさよしの演技いいですなー。原作の神保さんにハマっているMUGICOのすすめで見てみました。大人の姿の子どもを、面白くというか自然に演じております。今後の展開に期待!
(10/20up dated)
●ハロウィンの「お面展」/アート/乃木坂 TA GALLERY(10/31)
「お面展」なるものに、FDI会長のMUGICOと行ってきた。安斎肇氏やしりあがり寿氏、松尾貴史氏、ナンシー関氏、竹中直人氏、などなどイラストレーターやら俳優、タレント、漫画家、関取などさまざまなジャンルで活躍している10数名の方たちが製作したお面が展示してあるという。しかも係員がいるときには、お面はかぶることもできるというではないか。顔触れも面白そうだし、この展示のアドバイザーがいとうせいこう氏であるという点に魅かれたのであった。
会場のギャラリーは、坂の下にある小さな建物。横から見ると妙にうすっぺらい造りで、果たしてこのなかに部屋があるのか不思議であった。こぢんまりした2階のスペースの壁に掛かった、それぞれの作者の個性が反映されたお面の数々。なんだか小学生のときの図工作品が教室の壁に展示されている感覚で、妙に楽しくなってくる空間だった。素材も技法もさまざま。紙、ブロック、皮、木、布などのさまざまな素材が、それぞれの表現を得て形になっている。そしてそれを引き立てるのは、各お面に対するいとう氏直筆の“解説”。仮面収集家(?)でもあるいとう氏ならではの、お面に対する愛情溢れる嘘八百伝承をちりばめながら的確に各お面の個性を表現する解説の数々。あとでギャラリー下の雑貨屋のスタッフに聞いたところによると、いとう氏は展示前にその場で10数点全部のコメントを書いてすぐ帰ってしまったそうである。正味2時間ぐらいだったのではないかというのがスタッフの証言である。うーむ、さすがである。たとえば四角いお面を死刑のときにかぶせ、はずすときには顔面が膨れ四角くなっていた、などという話は、もっともらしくてスタッフのお姉さんのように信じてしまう人がいたとしても無理はないと思えるほどである。お姉さんはすっかり信じていて笑われたといっていた。ほかにもお面の特徴をよく捉え、黒人と白人の話やらエスキモーまで持ちだし、さらには「18年前、」となぜか時期を限定してしまうことなどが笑えた。
竹中直人氏作の画用紙に描かれた絵でできたお面は、子どもの頃によく作ったお面の形式だが、デフォルメされたこわい顔がなかなかの出来。うまいなあ、と思っていたらそういえば美大出身だったらしいですね。
係員さんは気さくにいろいろお話をしてくれて、いろんなことを教えてくれアットホームな雰囲気のギャラリーだった。お面かぶれるんですよね、と聞くと、ひとつだけということであった。さあてどれにしょうかな……と迷う。しかしなんといっても私を呼んでやまなかったのは、しりあがり寿さんの、眼帯&ばんそうこう付の怪我面だった。なぜならその日、私の目はやや“ものもらい気味”で、外出する前には少し腫れはひいたが眼帯をしてこようかと思っていたからだった。MIGICOもそれにしようと思っていたらしいが、彼女は大魔人のお面にする。眼鏡をおでこに載せた、“風呂あがりの大魔人”だそうである。ふたりでお面をかぶり、スタッフにポラロイドで写真を撮ってもらう(その写真はこちら)。ひとしきり楽しんでギャラリーを出て、MUGICOとお茶をする。さっき見てきた展示の影響か、子どもの頃にどんなことを考えてものを作ったとかどんな本を読んだかなどについてあれやこれや話した。話していて分かったのだが読書するときふたりに共通のことは、本を読むときたいがいは映像が同時に頭の中に浮かんでいるということだった。他の人はどうなのだろう。ひょっとしたら、私たちが絵も文章も好きだということがそうさせるのだろうかと思ったりもした。実はMUGICOと私には共通点があり、それは学生の頃、漫画家になろうと思っていたことなのである。MUGICOは高校の頃まで考えていたらしい。私は中学生の頃、他の漫画家にはかなわないと思いあきらめてしまったが。子どもの頃の話って普段はあんまりしなくなってしまったけれど、共通点があると話に花が咲いてしまったりする。
とはいっても私たちふたりの出会いはまったく漫画や仕事や本に関係なく、バイク好きというところから生じたものだった。ふたりのあいだに共通の友人がいて、彼女から「バイクに乗ってるこういう子がいる」と聞き、当時バイクに乗ってる女の友人がいなかった私が関心を持ち、会うことになったのだった。そういえば初めて会うとき待ち合わせしたのも、今日落ち合った本屋、誠志堂だったっけ。あれからもう9年かー。久しぶりに子どもの頃に一生懸命何かを作っていた気持ちやいろんなことを書いていたことを思い出し、あのときのパワーを少しでも取り戻そうとある決意をする。年月が経つほど、パワーが弱まってくるなあと感じるのが寂しい。
その日はハロウィン、場所は乃木坂で六本木も近いということで、夜にでもなれば仮装してる外人さんたちなどの姿も見られるのではないかと思ったが、昨夜の睡眠不足のためどうにもこうにも調子が悪かったので、そのまま帰宅した。どうもこの頃、体力が落ちたなあ。ここ数年続けていたエアロビも忙しくて行けないからと昨年でやめてしまい、さらにここのところ家でパソコンに向かってることが多いから、運動不足なのだよなあ。腰痛なんて自分にだけは無縁だと思っていたが、油断がならないのであった。運動せねば。芸術の秋、スポーツの秋。
(結局その日、夕食前の仮眠のつもりで夜7時にベッドに入ったら、朝4時半まで熟睡してしまった……うう、無理はきかないのね、もう。)
(11/4up)