●2日/夏の花たち
ニチニチ草を買ったときのことだ。3輪ほどの花がついていた鉢を選び買い求めた。花屋のお兄さんは鉢をビニール袋に入れるとき、「あっ」という顔をしていた。何だろうと観察してみると、どうやら花を一輪、落してしまったためのようだった。しかし私は(ニチニチ草はどんどん花が開くから……)と思い、気付かないふりをして受け取った。お兄さんはなんだかすまなそうな顔をしていたけれど。その後、風にも暑さにも負けずニチニチ草は、花を落してはまた新しい花を咲かせている。ほんとに名前のとおり、日々咲く花なのだ。時としてへこたれそうになる私を、そいつらは励ましてくれる。
●7日/無償の愛情としてのクーラー
とうとうクーラーを買った。と言っても、自分のためではない。半分はパソコンのためなのだ。なにしろここ数年の酷暑を、私はクーラーなしで乗り切ってきた。もともとクーラーの強い冷気が苦手なのだ。夏は暑いもんなのだ、と、我慢大会のおやじのようなことをつぶやきながら、生ぬるい扇風機の風にあたりつつ、これまで夏を過ごしてきた。でも時には部屋の暑さに耐え兼ねて喫茶店に避難し、今度はクーラーの冷気で鳥肌を立て、外にまた逃げる…ということを繰り返してきたのである。
しかしパソコンは暑いからといって外へ逃げるわけにはいかない。周囲の人達から「あんまり暑いと壊れるよ」と囁かれ、追い撃ちをかけるような気温の上昇のあげく、とうとうクーラー購入を決意した次第だ。
パソコンのためを思ってした決断のはずである。なのに購入店からの帰り道、「あのお金があればカラオケなら、洋服なら、本なら、CDなら……」などと、未練がましく他のものとの換算をしてしまうのだった。あああ、この愛は偽善なのか。
この心理は何かに似ている。そうだ、女にあれこれ貢いでしまった後の男の心理!?
貢ぎ貢がれということとは無縁な私だから、想像ではあるが。思えばわが家のパソ子には、プリンターやらスキャナーやら、買ってあげたものだ……。かくして私は、お座敷通いの挙句、ひいきの女にさんざん貢いでしまった旦那のような心境で、「パソ子の喜ぶ顔が見られるなら本望だ。後悔はせん。うん、無償の愛なり」などとつぶやきつつ家路につくのであった。
(約1週間後、やっとクーラーが到着。しかしその後数日、梅雨の戻りでめっきり涼しく、使う甲斐がない。たぶんこれからは外出時の室温上昇対策に、パソコンのためにクーラーを使うんだろうな)
●9日/昼下がりのジャズ喫茶
近所のジャズ喫茶へふらりと出かけた。以前、休日に一度入ったことがあるのだが、あまりにおばさま客が騒々しいので以来すっかり寄り付かなくなっていた店だ。しかし平日の昼間とあって、店内は空いていた。いかにも「ジャズを聴きにきてる」という雰囲気の男性が2名のみ。1人は自由業風、1人は涼みに来たサラリーマンという感じ。けっこう大音量でスピーカーからジャズが流れている。以前来たときはお客さんが多かったので、ジャズは流れてなかった気がする。落ち着いて店内を見回してみると、中央のピアノあたりにお客さんたちのメッセージなど置かれている。生ライブが行なわれることもあるらしい。レコードは壁にびっしりと分類されて並んでいる。6時からのパブタイムに来てみれば、また違った雰囲気なのかもしれない。近所に落ち着ける喫茶店が少ないと思っていたが、穴場を見つけた気がしてなんだか嬉しかった。
ジャズは好きなほうだが、詳しくはない。有名な数人のミュージシャンのアルバムを数枚持っているぐらいだ。でも店内のその空間では、そんなことあんまりこだわらなくてもいい気がする。音楽は聴くためのものだ。
(同日/上様でないワタシ)
読み終えてもいないのに、ついつい新しい本や雑誌を買ってしまう。レンタルビデオだったら、まだ観てないのに次を借りるというような不毛なことはしないが、本だと駄目だ。不毛だとは分かっていても、面白そうな本が目につくとレジに向かってしまう。そうして常時読んでいない本が数冊積まれることになる。
ところで私は、会社員でなくなって確定申告をする必要が生じてから、個人名で領収書をもらうようになった。「上様」ではなく自分の名字で。余談だが、以前コンビニで「宛名は上でいいです」と学生風のバイトの男の人に言ったら、「? うえさんって、どんな漢字ですか?」と聞かれたことがある。そうだよね、若い子のなかには知らない子もいるんだよなあ。でも考えてみれば、お殿様じゃないんだから「上様」っていうのも変な話である。
そして名字を名乗り続け、最近ひんぱんに近所の本屋で本を買っていたら、とうとう名前を覚えられてしまった。いつものように名を名乗ろうとしたら、すでに店員さんは私の名前を書き始めていたのだ。す、するどい。私の名前を覚えている店員さんは2人いた。一人は店主の奥さん(もしくはパートの女性?)、もう一人は大学生くらいの女の子。彼女たちが店番をしている日にレジへ行くと、私が何もいわなくても領収書を書いてくれるのだ。本来うれしいことなのだが、覚えられていると分かるとなんとなく気恥ずかしい。ここのところ連日買ってしまってたけど、その女の子が店番の時は店に入るのをためらってしまうのだ。いや、私はその書店におけるいわば「お得意さん」なのだから、堂々と振る舞えばいいのだろうが……。でもけっこう立ち読みもしてるので、顔を覚えられてる分、自意識過剰になってしまうのだろうか。
個人として覚えてもらえるということが嬉しい反面、悪いことはできないな、と思うのであった。まあ、悪いことする勇気も度胸もないけどさ……。
そういえば、求人広告の仕事をしていた頃、強烈なインパクトのある社名があった。何をやっている会社かは忘れてしまったが、社名だけは覚えている。「愛があればだいじょうぶ」という社名だ。一度、電話をかけてみてびっくりした。社名だから当然のことだが、「はいっ、愛があればだいじょうぶです!」と元気よく応対されたからだ。あの会社はまだあるのだろうか。そして社員は、買い物をして領収書をもらうとき、「宛名は?」と聞かれたら「愛があればだいじょうぶ、です」と答えるのだろうか。度胸がいるぞ。それとも裏社名と表社名があって、そういうときは「愛、です」と省略形の社名を使うのだろうか。謎だ。
今後、私が会社を作るようなことが万が一あったとしても、「生きていてよかった」とか「人生楽ありゃ苦もあるさ」なんて社名には絶対しないだろう。
●12日/アラーキー「A人生」について
荒木経惟氏の写真展「A人生」(ラフォーレミュージアム原宿)を見てきた。故陽子夫人、愛猫のチロ、空などの写真の数々が展示されていた。アラーキー氏の写真を写真展で見るのは初めてだったけれど、なんだかせつなくなった。作品のほとんどが陽子夫人だったからかもしれないけれど、本来目に見えないはずの愛のカタチを見た気がした。お二人は深いところで結び付いていたんだなあ、と思った。夫人危篤の報を受け、病院に向かう朝にもチロを写したり、花を持って出かける自分の影を撮ったり、棺に横たわる夫人を写したり……。この人は根っからの写真家なのだなあ、と心奪われた。天才と呼ばれる人を称して改めてこのようなことを言うのは意味がないが、あえて言いたいと思う。
夫人が亡くなってから空ばかり写していた時期があったというのは、以前耳にしていた。なんとなく分かる気がした。生と死を見つめ続けたあとでは、広くてからっぽなものにたぶん心が向かうのだ。
出口で販売していた数々の写真集のなかで、陽子夫人が亡くなるまでのしばらくの間の食事や食べ物を撮り続けた本があった。それを開いてみたとき、私にはそれらの写真が、食べ物には見えなかった。それは、生きるための生命体そのものだった。命を持っている生き物や、身体の器官の数々にも見えた。意識していたのか無意識にか、彼はたぶん食べ物に命を求めていた気がする。生きることは食べることとつながっている。ならば二人の日々の食事を撮り終えたとき、待っているものは……。答えのわかっている仕事。終わりの見えている食。そんな不条理な思いが、写真にあふれている気がした。食べ物をあんなふうに熱く撮った写真は、初めて見た。
一方でエロスを追求したり、街角の猫を写したり、街を写したり、一人の仕事とは思えない多彩な写真を撮っている。すごい人なんだ、と今さらながら感じた数時間だった。これだけ強く何かを訴えかけられた写真展って、私にとって初めてかもしれない。
●18/映画「ロストワールド」を観て
仕事の打ち合わせの後、衝動的に「ロストワールド」を観に池袋へ。大画面で恐竜を観たくなったのだ。「ジュラシック・パーク」の時は渋谷の映画館でみたのだけど、けっこうハラハラドキドキしながら観た。そのあと、原作もワクワクしながら読んだものだ。
今回の前評判はあらかじめシャットアウトして頭に入れず、まっさらな状態でのぞんだ。いやあ、しかし。今回の続編は個人的にはいただけないと感じた。おすぎがかつてスピルバーグを評して「人間が描けてない」といっていたようだが、まあそこはエンターティナー。非現実的な映像とストーリーで楽しませてくれることにかけてはさすが、と「ジュラシック・パーク」までは思っていた。でも今回はあまりにもストーリーの先が読めすぎて、ラストまでのなりゆきも荒唐無稽すぎて(ゴジラなどの怪獣ものを思い出してしまったのは私だけでしょうか)、前作ほどの感慨は得られなかった。子供を取り返しに母恐竜が登場してトレーラーが落下する雨のシーンは、かなりスリリングな気分だったけど……。
前作は子供たちがかなり重要な見せ場を担っており、狂暴なラプトルから逃げ切る迫真の演技でハラハラさせてくれた。ところが今回、マルコムの娘の役どころはほとんど意味をなさず、唯一意味をなしたのは、恐竜への蹴りの一撃……。とほほ。
恐竜をリアルに見せる技術に力をつぎこみすぎたのか、脚本が甘かった感じ。今になってみて、役者たちが目の前にいない恐竜と格闘したり逃げたりする演技の様子について興味を抱いてしまうあたり、なんて客観的なワタクシなのでしょう。でも、あたかも本物のごとくスクリーンで動き回る恐竜たちを、また観られたという点ではまあいいか。
●19日/「デッドマン・ウォーキング」を観て・ちょっと真面目な話
スーザン・サランドンが1996年にアカデミー主演女優賞を受賞した「デッドマン・ウォーキング」を遅ればせながらビデオで観た。実生活でもパートナーであるというティム・ロビンスとともに、スーザン・サランドンもなかなか好きなタイプの俳優・女優だ。エンターティメント性ばかりが増長する最近のハリウッド映画で、お飾り的な扱いの多い女優・俳優に比べ、微妙な心理描写や演技を見せてくれる人達であると思う。観ていて思わず登場人物たちに感情移入してしまって、いろんな人達の気持ちを想像してけっこう辛くなってしまった。
死刑囚役のショーン・ペンをストーリー上で追っていていつのまにか思い浮かべてしまったのが、例の神戸の少年の事件のことだった。犯罪の設定も状況も違うけれど、殺人という事件の後には、当人だけでなく家族(殺した側と殺された側)のその後がある。映画の中だけのことではなくて、世界のあちこちで実際に起こっていることなのだ。
今の子どもたちの学校環境のことなどを考えていたら、自分が高校生だった頃のことを急に思い出した。ちょっとしたことがきっかけで、学校へ行きたくなくなったことがあった。親が法事で留守なのをいいことに、実際に無断欠席してしまったわけなのだが、何日ぶりかに学校へ行くのはかなり勇気が必要だった。あの数日がもう少し長引いていたら、学校に行けなくなってたかもしれない。同じクラスに登校してこなくなった女の子がいたので、私も来なくなるんじゃないかと心配した、と友達は迎えてくれた。担任の先生は「元気か」と一言声をかけてきた。裏では親と密談があって私のズル休みはバレていたのだが。親には「情けない」と嘆かれた。そんなこともあったなあ。
まあそんなことばかりじゃなくて、今になってみるとけっこう学校は楽しかった。授業では、社会でスリーマイル島の原発事故のテレビドキュメンタリーを見せたり、選択科目の保育では出産シーンの映像を見せたりと、なかなかにショッキングな題材を取り上げてくれた。でも、実社会に結び付くそんな内容を思い起こしてみると、けっこうセンスのある先生たちだったなあと思う。なかには生徒を殴る先生もいたが、それにはそれなりの理由があったと思うのだ。根源には相手を思う気持ちもあって……。怒るのでなく、叱っていた。
週刊朝日のあるコラムでこんなことが書いてあった。「先生や大人はきちんと叱ることができなくなって、怒ってしまう。叱られることで納得でき、怒られることで恨みをもつ。怒ることしかできなくなった大人の責任について考えてみたい」。
時代が変わったのだろうか。これからの子供たちを取り巻く環境はどうなっていくのか。
少し暗い気持ちになってしまったので、せっせと部屋を掃除したり花に水をやったりした。朝顔は3週間たらずのあいだに蔓が50cmほども伸びた。まったく、いつのまにこんなに伸びたのか気付かぬうちに、ひょろひょろと育っている。そろそろ蔓の支えが必要だ。当面、割り箸をガムテープで補強して継ぎ木してみたが、もっと頑丈なのがほしいところだ。あともう何週間かしたら、朝顔は花をつけるだろう。
成長著しいアボガドの鉢も、立派な葉を茂らせている。スーパーで買ったアボガドの種から芽が出て、育って、いつか大きな実を結ぶのだろうか。
子供を育てているような気持ちで、この頃私は植物たちを日々見つめている。この頃、ほんの少しだけ親の気持ちが分かるような気がしてきた。子持ちの人からはきっと「子育てはそんな甘くない」と言われそうだが。
植物であれ動物であれ、命はリアルだ。水や肥料をあげもしないで、ただ「もっと大きくなれ、花を咲かせろ」と見てるだけでは植物は枯れてしまう。私はしゃがんで、だんだんに数を増やしてしまった鉢植えたちの一つひとつと向かい合い、ゆっくりと水をやる。数年前は忙しさを言い訳によく水をやり忘れて枯れさせていたが、今では水やりはもう私の日常の一部なのだった。何でもそうだが、日常の一部になってしまえば苦痛ではなくなる。
●27日/ジャックと豆の木のような朝顔
6月末に買ったときにはわずか10cmほどの背丈だった朝顔が、ゆうに1mぐらいまでひょろひょろと育ってきた。とりあえず割りばしを継ぎ足し、ガムテープで補強した添え木でこれまで間に合わせていた。しかし台風9号の影響による強風で、軟弱かつみすぼらしい添え木はお倒れになってしまった。以前から近所をまわって探しているのだが添え木はなかった。唯一、プラスチック製の竹形のものがあったのだが、なんだか気に入らなかったので今日になるまで、よろよろの割りばし杖に朝顔を巻付けたままでいた。
ところが私は今日、いいものを見つけてしまった。造花コーナーにあった、カラーだ。他の造花と比べて、カラーは葉がなくてまっすぐで、そのうえ丈が長い。値段は1本880円と生花なみのものだったが、私はこいつを「朝顔の杖」にすることに決めた。
うきうきしながら帰り、さっそく割りばしの代わりに、造花のカラーを土に刺してみる。らせんの癖がついた蔦を、カラーの緑の茎に沿ってはわせてみた。うん、なかなかいいではないか。カラーはシンプルな姿だから、これから朝顔が咲いても見栄え的に喧嘩をしないはずだ。
これから花を開かせるであろう朝顔の蔓は、もっと先へ、もっと先へと宙をつかもうとしている。まるで見果てぬ夢をつかもうと手を伸ばす、人間の手のように。
ジャックと豆の木のようにこの蔓が大きく育って、どこか楽しいところへ連れて行ってくれないかなあ、などという幻想にひたる私であった。