2000
●二匹の蝶
●20世紀最後の夏の読書
●サボテンの花
●〜江戸の夏〜/新しい伝統芸能〜怪しの世界
今年の夏は暑かったせいか、春先からずっと外に出していたサボテンの成長がすこぶるいい。ちょっと見ていないうちにずいぶんずんぐりと太ってきて、どいつもこいつもまるまるとした頭になってきている。肥料はあげていないのに、やはりサボテンには太陽と適度な水が一番の肥料かな。朝顔も、花が終わったあとの種を蒔いたものが今年もすくすく育ち、くるくると蔓を巻き始めた。蒔くのが遅かったから花はまだこれからだ。7月は花が咲いている鉢が少なかったので新たに買ってきたポーチュラカは、薄くて可憐な花びらながら、けっこうたくましく咲き続けている。
そんな鉢植えたちを見やりながら洗濯物を干していた先日のこと。
階下の方から、二匹のアゲハ蝶が互いを追いかけあうようにしながら上昇してきた。突然だったので、こちらはちょっとばかり驚き、思わず一歩後退った。二匹のアゲハはそのまましばし互いにもつれあうようなダンスを続け、横向きに飛び続けた。そのあとふいに、それぞれが違う方向に、唐突に別れていった。なんてことはない、蝶との遭遇。蝶が飛ぶとき、そうやって二匹が追いかけあいからみあうように飛ぶことはよくあることだろう。
しかしそのときふと、私の脳裏に9年前の夏の、同じようなシーンが蘇った。あのときはモンキチョウだった。春に見かける蝶というイメージだが、7月でもモンキチョウというものはいるのかな、一体。ともかくその夏の日、出棺していく父の棺の上で、二匹のモンキチョウが舞っていた。それは一瞬のことで、目を留めていたのはたぶん私ぐらいだったかもしれない。だからそう思ったのもたぶん私だけで、それはきっとほんの思い込みの類いなのかもしれない。でもそのとき私は思ったのだった、「父は母を追って今一緒に飛んでいったのかな」と。そして、なんとなく安心したのだった。
先日二匹のアゲハを見た一瞬のあと、そのことを思い出した。気付けば時期はお盆。二人揃って来たかなー、などとふと思ったりした。同じ虫でも、ゴキブリとか蚊じゃなくて良かった……。蝶も芋虫のときは恐いけど。
(8/14Up dated)
※友人との都合も折りあわなく急に暇になった週末、近くの映画館でやってた「TAXI2」観てきました。先の予想はつくものの、なかなかに笑えて楽しめます。日本人にわかりやすいネタがけっこう出てきますし。ハリウッド系よりちっとはひねりの効いたユーモアが、いかにもヨーロピア〜〜ンな感じでした。
文庫の古本売り場で一緒に買った、『ジョイ・ラック・クラブ』『殺人容疑』をこの夏読んだ。どちらもけっこう前に出版されたものだが、21世紀に残したい、上質な翻訳小説だと思う。たまたまどちらも、ストーリーの構成上、第二次世界大戦がなくては成り立たないものでもある。戦争をモチーフにして戦争を語るのではなく、戦争によってそれぞれの生き方に影響を与えられざるを得なかった親と、子の二世代にわたる人生を主軸に、親子の間で受け継いでいくべき精神と断ちきっていくものとの違いを前に内省する、人々の感情の揺れを描く。どちらもアメリカでは話題になった小説だというし、映画化もされたので、知っている人も多いだろう。『ジョイ・ラック・クラブ』はそのままのタイトルで、『殺人容疑』は“ヒマラヤ杉に降る雪”として。“ヒマラヤ杉に降る雪”に出演したイーサン・ホークが原作を褒めていたのを何かで読んだことがあったから、原作を読んでみたいと思っていた。こちらの映画はまだ観ていないのだが、どうも小説の方がいいのではという気がしないでもない。役者や演技がどうのというよりも、内に向かう感情の機微が描かれる内容なので、映画でそれを表現するのは難しかったのではと思う。
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★『ジョイ・ラック・クラブ』/エイミ・タン著(角川文庫)
『ジョイ・ラック・クラブ』は中国を出てアメリカに渡ってきた移民の女4人と娘4人の人生を交互に描くという形式で、過去と今をあぶりだしていく。母が死んでから、自分の異父姉妹が中国に残されていて、母がそれをずっと探していたことを主人公が知ったというエピソードが、物語の背骨であり、この小説が生まれた力となっている。戦争の末の彷徨で、双子の娘を置いていかざるを得なかった母の悔やまれる想いと、その事実に戸惑いながらも、娘としてするべきことに思い惑う主人公。移民の2世で根っからのアメリカ人の娘と、根っからの中国人の母それぞれの目線で、物語は紡がれる。その他の登場人物たちも、親子や友人同士の間に流れる感情は決して温かいものばかりではない。でも、読後感はさわやかだ。随所にみられる詩的な表現のせいか、これがあたかもお伽話であるかのような印象も受ける。それがこの小説の一種の魅力でもある。
解説で川本三郎さんが、この作品について言い得て妙なことを書いている。“この母親たちは娘にさえ打ち明けられない心の傷を負っている。(中略)……母親たちは、自分が体験してきた不幸や悲劇を決してストレートに娘たちに語り伝えようとしない。(中略)……母と娘とはいえ、悲しみは、それぞれの胸の内にひそかにしまっておかなければならない”。ここに登場する親子8人の間柄は、必ずしもうまくいっていない。ここでもまた川本さんがうまいことを書いていた。“「ジョイ・ラック・クラブ」は、理解と接近の物語である。対立から融和への物語である”。さすが川本さん。
そうそう、そうなんです。世代が違えば、経験や育ち方、価値観の違いから、対立もする。だけどそこですべてを断ちきってしまったら、親子である意味がない。たとえになるかわからないが、吉永小百合のCMにあった、“何を残し、何を持っていくか”、選択する力が問われることというか。あの場合はモノのことだが。単に次世代に伝えるとか教える、残すということではなく、身をもって呈すれば伝わっていくことというのがあると私は感じる。
親子の確執や溝について細々と具体的に語るのではなく、それぞれの生き方の違いを、次に何が出てくるかわからないカードをめくっていくように並べたこの小説は、とても的確な表現形式を選んだと思う。細部や全体の構成においても、表現という意味でこの小説はよくできた作品だ。そして何より、親娘のありかたを考えるきっかけになる。女の人にはぜひ一度読んで欲しい一冊だ。(とっくに読んでたら失礼しました)
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★『殺人容疑』/デイヴィッド・グターソン著(講談社文庫)
法廷ミステリーという形をとってはいるが、この小説もまた、戦争がゆがめた異民族間の感情から生まれる確執、そして二世代にわたり理解に至るまでの物語だ。何より驚かされるのは、著者が日本人とその移民について、実に公正な目線をもって物語を展開させていること。今の日本人が失ってしまったかもしれない、礼節と粘り強いまでの勤勉さや、東洋的思想。それらについてかなり勉強したあとが目に見える。そして、アメリカ人の目に映る日本人像と偏見、またその逆についても、街の人々や陪審員などさまざまな人物の目を通して重層的に描かれる。殺人容疑の罪で法廷で裁かれる日本人男性カズオに寄せられる、さまざまな偏見。その一つひとつを読み込んでいくと、追及されているのはカズオの本質ではなく、逆に、カズオを疑う本人の本質であることがわかってくる。感情を表に表さないため不気味にさえ思われるカズオ(それがアメリカ人から見た日本人像にもつながる)の心情が終盤で明かされることで、事件の謎も徐々にとけていく。
圧倒的に不利な状況でも無罪を主張し続けるカズオとその妻ハツエ(映画では工藤由貴が演じる)、そこにかつてハツエの恋人であった新聞記者のイシュマエル(同じく、イーサン・ホーク)の人間関係がからんでくる。その他にもさまざまな人物が登場するが、その一人ひとりのものの考え方や感じ方が緻密に繊細に描かれ人物像が膨らむので、読み手が決して混乱することはないし、その人物描写がストーリー以上に魅力的でもある。
人間同士、友達同士としてつきあいたいと頭では思いながらも、兵役体験のある日系人、アメリカ人の男たちの間には、退役後に微妙な溝が生まれる。戦争は、女達の生き方にも影を落とす。一人の男の死をめぐる裁判によって、それらが表出してくる。きっと、ここで描かれていることに似たような偏見は、戦後のアメリカやさまざまな国で見受けられたことだろう。アメリカ人として生活してきたのに、日本人ということで収容所に入れられた移民の人々。アメリカ人として戦争で闘ったのに、ジャップと呼ばれる帰還兵。血筋や国籍ってなんだろう、と考えてしまう。私の父方の親戚も戦前にブラジルへ開拓民として渡ったそうなので、移民のおかれた状況や立場にはつねづね関心があった。国や状況は違うけれど、私の不勉強な部分を、この本は教えてもくれた。
偏見なく公正にものごとや人を見るのはたやすいことではない。それでもやはり、うわものに惑わされないで、本質を見る目をくもらせたくないと思っている。この本は、そのことを今一度思い出させてくれる。そしてもうひとつ、許すことの大切さを。
(8/16 Up dated)
「ほんの小さな出来事に君は傷ついて〜」……確かそういう出だしで始まる歌が、財津和夫さんの『サボテンの花』。財津さんがあの歌を作ったころ、見たサボテンの花が私の家で咲いたようなものであったとしたら、ああいう歌を作る気分にはならなかったに違いないと思う。
よく園芸店などで売っているサボテンに赤やら黄色やらの花が咲いているものがあるが、あれはあとから飾りでくっつけたものもあると聞いた気がする。では、本物の「サボテンの花」とはいかなるものか。種類によって異なるのかもしれないが、友人のOさんから私が譲り受けたまんまるいサボテンの花は、美しくはあるがやや不気味なものだった。園芸好きのOさんは、ベランダで咲いた花々の写真を私に見せてくれたことがある。そのなかで思わず「これちょっと気味悪いね……」と言ってしまったのが、サボテン。まるいサボテンからいくつかひょろひょろと長い茎(?)がベランダの柵の間を抜け日の当たる方向へ伸び、ラッパのような花を咲かせていた。それを見たときは衝撃だった。サボテンの花は、“可憐な花”から“不気味な花”というイメージへ急転直下。その日だっただろうか、彼女からそのサボテンを株分けしてもらったのは。毎年花が咲いていたというので、私のところでも咲くかどうか、楽しみでもあり恐くもあった。
去年は咲かなかった。環境が変わったので咲かないのかなと思っていた。そして今年。まるいサボテンの表面にこれまでもいくつか子サボテンが生まれていたが、今年はそれを放りっぱなしにしていた。すると、8月上旬のこと、子サボテンだと思っていたうちのひとつが、日に日に伸びていくではないか。「これはもしや芽?」と、最近放任していたサボテンの様子を気にし始めた。毎日芽は伸びていった。極端な話、朝出かけていったときと帰ってきたときでも違うように見えるほど、成長ぶりは著しかった。ひょろひょろと横向きに伸び続けた一本の茎(?)はもはや20数センチ。とっくに鉢の外に出ていて、いつか自らの重みで折れてしまうのではないかと思われた。どう見ても不気味だ。
そんなことが一週間ばかり続いた。茎の先には、いつのまにかふっくらとした大きな白い蕾があった。そうなると、ちょっと楽しみになってきた。朝に夜にチェックをするが、まだ一度も開花はしていなかったと見える日々、私はサボテンの花が咲くときを待ち続けた。そして8月半ばのある日、突然咲いた。白い、大輪の花だった。薄い花びらが幾重にも重なっている。サボテンの直径は7センチほどだが、それと同程度ぐらいの大きさ。サボテンから太陽の方向を向いて伸びた細い茎が支える大輪の花は、様相は不気味だが美しかった。写真で見たときは不気味にしか思えなかったが、目の前の花にはそれを超えるものがあった。不気味な美しさ、妖艶さというものを、花を見て初めて感じた。まさに「きれいな花には刺がある」だ。
花はその後、数日咲き続けた。そしてある日、自らの重みに耐えかねたのか、天寿をまっとうしたのか、サボテンから離れ花を落とした。鉢の脇に落ちていた花は、まだ咲いていたときの美しさを湛えていた。私は茎の根元を、鉢の土に差してみた。もしかすると復活するかもしれないかなと思って。
それから数日。日に日に花はしおれ、茎はしんなりとなり、花は蘇りはしなかった。数々の復活劇を見せてくれたサボテンだが、花は例外だった。花の命は短いのだ。
(8/26Up dated)
※私にサボテンを株分けしてくれた友人Oと、今日は朝顔柄のゆかたを着て浅草に行って参ります。今年の初ゆかた! でも夜は花火を見られず、私は狂言を観に、Oは園芸フォーラム(園芸好きの人たちのオフ会)へ。もうすぐ夏も終わりですね……。
●〜江戸の夏〜/新しい伝統芸能〜怪しの世界隅田川の花火大会の日、友人Oさんと浅草へ行った。と言っても花火が始まる前には二人とも浅草を出なければならなかったので、その日の当面の第一目的は“ゆかたを着て甘味屋へ行く”ことだった。今年はせっかく新しいゆかたと帯を買ったのに、着ないでおられようか。
だが、すんなりゆかたを着られないのが悲しいところ。Oさんの家にゆかたを持ち込み、写真解説図入りの着付けの本を見ながら、二人で帯を結びあう。「ええと、こっちが右でこれが左……」。うーん、なんだかよくわからないが、なんとか帯を結び、ぎらぎらした日差しの午後、いざ浅草へと繰り出した。電車が浅草に近づくにつれ、ゆかた姿の女性が目立ってきた。私たちは浅草寺でお参りを済ませると、次に目当ての甘味屋を目指した。梅むらの“豆かん”、慣れない下駄で歩き疲れた身体を癒してくれるおいしさでした。なんと言ってもえんどう豆が、とってもつやつやで、透き通るように奇麗。そして、ふっくら柔らかい。寒天と豆にからむ黒蜜が、さっぱり、さらっとして後味がいい。あー幸せ。
ほっと一息ついていると、Oさんはそろそろ浅草を出なければならない時刻になってしまったのだった。浅草にいたのは、正味一時間ぐらい? 出かけた時間が午後をかなり回っていたからなあ。彼女はこのあと、園芸好きの人たちのオフ会へ。私は、“新しい伝統芸能”という演目を観に国立劇場へ。花火を見にどんどん駅から涌いてくる人波に逆らい歩く。Oさんのオフ会の開始時間はもうとっくに過ぎていたが、私のほうは開演時間までまだゆとりがあった。そこで駅でOさんと別れ、少し一人で隅田川沿いの裏道をぶらつく。花火を見に来た人はどんどん駅から涌いてくる。歩き疲れたので公園で一休みしていると、喉の渇きを覚えた。そういえば、さっき駅前で缶ビールを売っていた……。あたりはまだ明るい、夕方5時。ビールか、それとも冷たいお茶か。いや、一人で道端で缶ビールなんてはしたない……しかも今日はゆかた着てるんだぞ〜、でもみんなそのへんで飲んでるし……と、しばし葛藤。結局、缶ビールを買ってしまった私がいた。でもビール飲んでるのがばれると恥ずかしいので、ハンカチで缶をくるんで、すましながら飲んでいた。ああ、駄目な私。足の疲れも少し引いたころ、移動しようと駅へ。こんなときにゆかたを着て帰る方向にいるのは、私ぐらいなもの。人をかき分け、電車に乗ったのだった。
***(ここで出かける時間に……続きの「新しい伝統芸能」の報告は帰宅後に……。
8/31Up dated)******『新しい伝統芸能 〜怪しの世界』8/25.26国立劇場(私の観たのは8/26)
生で琵琶を見るのも聴くのも、講談も狂言も、初めてである。だからそれらについて書くなんておこがましいのかもしれないし、感想以外に書くこともないが、あえて書く。思ってたより面白かったからだ。それが新作だったからかどうかは古典を観たことがないのでよくわからないが、作者も演ずる側も、“いつもと違うもの”ということに、いい意味での緊張感を持ちつつ楽しんでいたように思う。伝統芸能は“有難がられて”いくよりも、“面白がられて”いくことが、次の世代に日本が誇る伝統を残していくことになるのではないだろうか。昔の新作が今の古典なわけだし、昔の人も“楽しんで”観ていたんだろうし。
舞台演出として本物の蝋燭が隅々に置かれているなんてのも、ちょっとした驚き。ああいう建物って消防法とかがあって火とか使っちゃいけないように思ってたけれど、伝統芸能の場合は許されるのでしょうか。でも、蝋燭の明かりってとても“和”だなあ。和紙で覆われた蝋燭の炎がゆらゆらとゆらめく様は、幻想的でもありました。
前から4列目という舞台にかなり近い席で、以下の3作を観させていただきました。橋本治さんが近くの席にいたなあ……。いとうさんの狂言が目的で来たけれど、おかげでこれら伝統芸能に触れる機会がもてて、楽しい夜でした。■薩摩琵琶 白鷺譚(友吉鶴心 ほか/橋本治作)
橋本さんのこと、聴いて楽しくなる歌詞づくりをやらかしてくれたのかと思いきや、意外とまっとうなムード。びんびん、べんべん弾かれる琵琶と、朗々と唄い上げられるみやびやかな歌詞が会場に響き渡る。初めて聞く琵琶の音にしばし聴き入る。
暮れなずむ空、月光、東雲の空……などなど、情景をイメージしやすい言葉が時折耳に入ってくるけれど、唄われる内容を理解するのに頭は必死。まるで英語を聴いてるときのように、耳に入ってから頭で翻訳して……という感じ。やがて歌詞に合わせ舞台にもライトの月が。そのうちいかんです、あたりが薄暗くなってきたこともあり眠くなってきたわたくし。頭をカクカクさせつつウトウトしてしまうこと数度。そして、琵琶のバチが時々“バシッ!”と打ち鳴らされるたび、ハッとしてびくっと目を覚ますのでありました。いつのまにか奏者は増え、琵琶の演奏も激しくなってきていたが、またウトウト、そしてビクッとの繰り返し。うーん、だから内容についてはあまり語れませぬ。橋本さん、私を眠らせないで欲しかった〜。橋本調初期の「春って〜〜〜曙よ〜〜〜〜!」のノリだったらまた違ったかな〜。でも伝統芸能をやっている方々にそんなふざけた歌詞や大きな冒険は許されないのでありましょうか。そこまでしないまでも、もう少し遊びがあっても良かったように感じるが、いかがなものか……。聞く人が聞いていればあれはあれで充分新しい感覚だったのかもしれません。
あとで友人に聞いたところによると、琵琶のバチを激しく叩くのって、実際のところ、客の眠気を払う意味もあるとか。ふーん。■講談 ものいふ髑髏(室井馬琴/夢枕獏作)
馬琴さんの自己紹介もかねた前振りはそこからかなり笑わせてくれ、先ほどまでの眠気も覚める。このあたりは馬琴さんが考えてこられたと思うのだが、「講談をやってます、と言うと、ほう、どちらの道路公団ですか? などと聞かれまして」とか、自分の名前がまっとうに読まれたことがない例など挙げ、話芸で楽しませてくれた。前振りで客も笑いのエンジンがかかったところで本題へ。
ものをいう髑髏(どくろ)と出会った男の話なのだが、登場人物によって声色を使い分ける馬琴さんの話術や話し方のおかしさに、すっかり最後までひきずり込まれてしまった。表情が特別おかしいわけではない。口調と声色が面白い。情景をずっと頭に描きながら聞いていた。暗闇で着物の裾に噛みついてきたおしゃべりな髑髏、髑髏のけしかけた儲け話に乗る金貸し男、ものをいう髑髏がしゃべるかどうか賭ける人々、最後に笑う髑髏……。それらを聞いて思い描いた情景は、今も頭に残っている。
もちろん、獏さんの言葉の選び方やホンとしてのリズムも優れているのだろう。書いていた獏さん、けっこう自分でも音読したんだろうなあ。■狂言 鏡冠者(野村萬斎 野村万作 石田幸雄 ほか/いとうせいこう作)
これもけっこう笑わせてもらった。若手狂言師の野村萬斎さんの表情がまず豊かで、それを観ているだけでもかなり可笑しい。一方、野村万作さんは語りがなく面を被っているという役どころで、その対比が強調されていたのも面白い。
話は、鏡の神に捧げる神酒を飲んでしまい上機嫌の萬斎さんが、鏡から飛びだしてしまった鏡の精(父親・万作氏)と舞いを踊る。自分の真似をする鏡の精との舞いに興じているうち、いつしか自分が鏡の中に……というもの。自分であって自分でない、鏡のこちらと向こう側の微妙な違いを感じさせてくれる二者の舞いだった。それが親子共演というのも、客としては楽しめる要素だ。
自分が自分を笑う、という展開は、いかにもいとうせいこうさんらしいユーモアだ。若いときから歌舞伎や能が好きだったという氏であるから、この仕事は作者としても楽しい仕事だったのではないだろうか。ただ、強いていうと最後が少々物足りなかったように感じる。「あれ、終わっちゃったの……? このあとまた何かあるのかな……?」という感じで、周りもそう思ったようである。どこかへ吸い込まれてしまったという(鏡の中?)、想像の余地を残し余韻が残る終わり方ではあったが。でも、あまり狂言を知らないので、大きなことは言えません、はい。
ところで、その日私は写真を見ながらゆかたの帯を結んでいたときに思ったが、写真や鏡に映る右と左は自分と違うので、これがけっこうやりにくいのだ。自分の右手は鏡では左手となり、一瞬頭が混乱する。相手と正確に同じ動きをしようとすれば、左右は反転する。鏡が昔から神的・魔力的な存在として扱われてきたのは、そうした人を惑わす不思議な感覚を人々も感じたからだろう。(9/2Up dated)