[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

 睦月(January)

2000 


●ただ見つめること/演劇「砂に沈む月」を観て
●闘う男/映画「ファイト・クラブ」を観て
●解体ユル・ブリナー/テレビで「王様と私」を観て


●ただ見つめること/演劇「砂に沈む月」を観て

(遊園地再生事業団/下北沢ザ・スズナリ 1/4)

 宮沢章夫さんが演出する演劇集団『遊園地再生事業団』の、とりあえずの活動休止公演。宮沢さんご本人が“これは終わりではない。とりあえずの最後”と言うのだから、いつか戻ってくるのだろう。もしかすると戻ってこないのかもしれないが……。宮沢さんの演出する芝居が好きな私からするとちょっと残念だが、休止することが、次にどんな“とりあえずの始まり”を生むか、楽しみでもある。

 そうは言っても、これまで私が観たことのなかった“砂漠監視隊”シリーズがこれで最後というのはちょっとくやしい。なにしろ、シリーズといわれても前に観たことがないのだから、シリーズをふまえて生じてくるひねりなどがわからない。まあしかし、演劇は“消えもの”なのだから、いずれにしろ、今、目の前にある演技と舞台をただ見つめるしかできないのだ、観客には。なかには、無理やり観客を巻き込む舞台もあるだろうが。

 私を含む観客が舞台をただ見つめることしかできないように、舞台上の“砂漠監視隊”はただ砂漠を見つめている。砂と空以外何も見えない砂漠を監視することが仕事の監視隊員たちは、どこまでも変わりばえのしない眺めと毎日に退屈している。何事かが起きるのを待つ、あるいは変わらないことを報告するのが仕事。ただ見て、ひたすら待つ仕事。そんな彼らの仕事以外の日常の、ムダな部分が今回もたっぷり盛り込まれていて、随所で笑わせてくれる。このムダこそが、宮沢さんの脚本の醍醐味だ。自分で体験しなければわからない「3倍の痛さ」や、始まりと終わりが循環するような不思議な“夢のつながり”には、今考えると何がしかの暗示が込められている気もするが、観ているときには意味など感じさせない。ヘタな意味付けなどせず、徹底してムダを意識した脚本。それでいて、役者の動きにはムダがない。私に“ムダ”の魅力を教えてくれたのが、宮沢さんの脚本・演出だ。

 真実や理想を求めるのではなく、ただ“今ここ”を見つめる。公演パンフレットにはそんな言葉が書かれていた。見つめることから始まること、というものがあるはずだと私も思う。というか、何事も対象を“見る”ことから始まるのではないだろうか。もし目が見えなければ、耳を澄ますことが、見ることに値する。見えないものを感じるのはいいが、見えないものを見るというのは霊媒師やクスリのほうの話になってしまいそうだ。

 今あることをただ見つめること。そして見たことから考えること。人間としてのそんな基本的なことを、最近の人々はどこか忘れてやしないだろうか。その時その時ごとの時代を見つめてきて生まれたであろう宮沢さんの舞台を思い返して思うのは、そんなことだ。

 “とりあえずの最後”だからか、エンディングでは宮沢さんが役者に混じるような形で、挨拶を述べに舞台に立った。暗転のあとに宮沢さんが舞台にひょっこりいたときは、ちょっと笑った。2000年だから何かを始めるということが多いなか、あえて宮沢さんは2000年に“とりあえず”終わらせる。そうして、21世紀を目前に浮かれている世間を監視する仕事に入るのだろう、たぶん。

 『遊園地再生事業団・観劇歴』の浅い私ですが、さまざまなものを見させてくれ、気付かせてくれたことに感謝します。そしてまた、いつか始まることを待っています。


●闘う男/映画「ファイト・クラブ」を観て(ワーナーマイカルシネマ 1/4)

 ブラピが出演するという以外、例のごとく予備知識をまったく仕入れずに観た。特にブラピが好きなわけではないが、なんだか面白そうだ、というカンがあった。そしたらば、いやー、なかなか面白かったのですよ、これが。先月観た『シックス・センス』にはがっかりして思わず眠くなったけれど、これは久々に他人にもお薦めしたくなった映画。とはいうものの、同行者が、子育てで忙しくて最近映画なんて観ていない、という友人・Mだったので、久々に観る映画としてはちょっと過激すぎやしないかと、少々気をもんでいた。気分悪くなりそうなシーンとかもあったので。終わったあと彼女に感想を聞いてみると、けっこう面白かったとのこと。私とはまた違う視点からこの映画を観ていたようだ。さすが主婦だけあって、子育てという視点で。確かにそういう目で見ると、神経症的な役柄だったエドワード・ノートンが描かれる背景には、“家族”の存在が見られないのだった。彼女いわく、「日本も犯罪が多くなってきたけど、アメリカなんてもっとでしょう。そういう背景には、子どものときに充分に親から愛情を受けていなかったっていうことがあるんじゃないかな、と思って観てた」。なーるほど、一理ありそうな。なんだか新鮮。

 一方私はというと、現代社会に根づくカルトへの警鐘と観ていた。当初タイトルからイメージしていたのは、汗臭い闘いを描きつつ、精神的にたくましくなっていく男の映画。ところが、もう、そんな浅はかな予想を遥かに超えちゃった。これは肉体の闘いの映画に見せ掛けた、精神的闘いのブッ飛び映画だ。病んでいく心の恐さを見せつける。感動や快感をよぶというのではなく、考えさせられる面白さ。

 ちょっと恐いのは、この映画にかぶれて「自分もファイト・クラブを創ろう」なんて考えてしまうような輩がいるかもしれないこと。男たちよ、本当に闘うべき相手は誰だかわかってるかな? 先の読めない展開で、映画としては面白かったが、この映画みたいなことが現実にならないようにと願う。


解体ユル・ブリナー/テレビで「王様と私」を観て(1/30)

 昨年末あたりから、ユル・ブリナーが王様に扮する映画『王様と私』が観たくて、近所のビデオ屋で探してみたのだが、見当たらなかった。なぜ急に観たくなったのかは自分でもよくわからないのだが、とにかく観たかったのだ。子どものときテレビで観たとき以来観ていなくて、内容はほとんど忘れちゃったのに「面白かった」という感覚だけを漠然と覚えている映画というものが私には何本かあるが、『王様と私』もそのひとつだった。確か、小学生のときに観たきりのその映画の、どこに私は面白さを見いだしていたのか。ダンスのシーンが楽しそうだったとか、ユル・ブリナーの演技が面白かったとか、今では漠然としか思い出せない映画に、当時の私は何を感じていたのか。それを確かめたくもあった。

 たまった仕事でもしようかというつもりだった日曜の昼下がり、ふと新聞を見ると、番組欄に『王様と私』が載っていた。あと十数分で始まる時間だった。仕事を取るか、観たかった番組を取るか。そして番組を取ってしまったダメな私である。
 で、観た。やっぱり面白かった。1950年代に作られたとは思えない出来栄え。役者達が唐突に歌いだすミュージカルには違和感を覚えるが、この映画は音楽も踊りも、実に自然な展開で、必然的にストーリーに織り込まれているのだ。ユル・ブリナーが王位についているシャムの民族舞踊のシーンがこれまた圧巻。……と、これは大人である現在の私の感覚。

 果たして子どもの頃の私は、どんな感覚でこの映画を観ていたのだろう? なぜこの映画が“好き”だったのだろう? こうして考えてもさっぱり思い出せないのだが、たぶんユル・ブリナーの役柄と演技に魅力を感じていたのだという気がする。ユル・ブリナーの演ずる王様は、とても嫌みでありながら、知性を感じさせ、ユーモラスだ。あのスキンヘッズも、インパクト充分で忘れられない。それに何より、目の演技がうまい。どこかマンガ的な動きの演技も、子どもだった私を楽しませてくれたはずだ。真面目な演技と、その両極にあるユーモラスさを、絶妙なバランスで演じ分ける。そんな王様を、私は好きだったはずだ。
 最後がちょっぴり哀しい終わり方だったのは、これまたすっかり忘れていて、不覚にも涙ぐんでしまった。

 ところで私は、今回、ユル・ブリナーを改めて見ていて、ちょっとした発見をした。目が、鹿賀丈史なのだ。よく動く眉と、ときどきちょっとイッちゃってる目。そして、頭と芸風は財津一郎。すぐに上着の前をはだけ、肉体を誇示するところは、ドラマ『ビーチ・ボーイ』における反町隆史。どうですか、新説でしょう。こうしてパーツに解体して解説するとかなりヘンな人になるけれど、やっぱりユル・ブリナーは名優です。テレビの副題にもあったけど、『王様と私』は、これぞ20世紀に残したい名作です。

(1/31up dated)

※ところで、辰年ということで、年賀状のモチーフに『エルマーとりゅう』を使ったので子どものとき以来久しぶりに読んでみたのですが、いやー、いいですね、やっぱり。エルマーとりゅうの友情や、“秘密の素敵さ”みたいなものが。


《お帰りはこちら》
▲HOME ▲F-FILE  ▲sesami's travel ▲カメライダー▲すれすれ草 ▲レッツ・リンク