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巻第二十 平成十四年 八月
※初めての方は一番下からお読みいただくと、日付の順に見られます。
■暑い部屋と、オフィススタバ&Mr往復の一週間
(8/16)
お盆である。しかし私は仕事。去年もお盆とかあまり関係なく働いていたなー。土日も最近はなにかとちまちま仕事してた気がする。明日・あさってとわずかな夏休みとしてミステリーナイトに参加してくるので、それまでに予定の仕事をすませておかねばならない。ふー。しかし、2週間更新をしていない穴を埋めるべく、これを書いていたりする。最近、ほぼ毎週提出する仕事を始めたので、一週間が早く感じる。また、打ち合わせ・外出の多かった先週とはまた別な意味で、今週は時間が経つのが早い。自宅仕事が多いと、きっちりした約束がないぶん、うっかりすると睡眠や食事、息抜きの時間配分が多くなってしまうのである。しかし休むため、がんばる。
昨日までは集中するためスタバやミスタードーナツで資料読み・作成やパソコン入力をしていた。そうしてクーラーのきいた店内に長くいると、冷房が苦手な私は寒い思いをしていたものだった。なにしろ、実家に住んでいたころの私の部屋は、クーラーなどないわが家の中で最も西日のきつい場所だったのである。そして、昔多くの家庭がそうであったろうが、夏といえばうちわか扇風機を使い、すいかを食べ涼んだのである。で、昔から私は暑さには慣れているが、クーラーには弱い。最初はいいが、長くいるとつらいのだ。幼いころ私にとってクーラーとは、デパートや銀行にあるもので、母に連れられての夏の買物中、一瞬涼むためのものであった。
しかしこの間、テレビで冷え性対策の特集を見て、「首・おなか」の部分冷えが全身の冷えをより高めることを知り、対策を講じたお蔭で、冷房に当たってもあまり冷えを感じなくなった。よってカフェでの長居も苦でなくなった。すっかりスタバの主。(迷惑な客……)。全身の血流を調整する交感神経が、「暑い」と感じると血管をひらくようからだに指令を送り、「寒い」と感じると血管を収縮する指令を送るらしい。からだより、脳がどう感じるかがまずポイントであるという。だから、脳が寒いと感じないように、交感神経に密接にかかわる首やお腹を温めると血管が拡張し、全身の血流がよくなるとのこと。からだが冷えきったときの応急対策としては、熱いタオルを首筋に当てるといいとか。
久々にずっと部屋でパソコンの本日、夕方になってずいぶん涼しくなったが、昼間はいつものことながら汗だらだら。例のごとくクーラーはつけていないが風もあり、やや涼しめなのにもかかわらず。頭に手をやると熱い。そこでタオルを水で冷やし、首筋にあてる。しばらくすると汗が引いた。効果てきめんである。夏を快適に過ごすコツを得て、あとひといきがんばるぞと、引き続きパソコンに向かう私であった。
(8/16Up dated)※17日午前現在、出かける前……予定の仕事、終わりませんでした。。。
■ひたすら歩き、見た、週末。
/横尾忠則『森羅万象展』と東京湾花火大会(8/10)暑い日差しが照りつける週末の午後、横尾忠則『森羅万象展』を見に、東京都現代美術館へ。去年、ディジリュドゥという楽器のイベントを見に、この美術館のある木場を訪れた。そのとき、近くに美術館があるのを知り、行ってみようかと思ったがそのまま、以来、1年経ってしまっていた。横尾忠則さんの作品はそれほどたくさん見てきたわけではないが、なにしろ著名な画家だから目にする機会は多いし、そうした少ない機会でも目にしたものはなんとはなしに惹かれるものがあって、数年前ラフォーレで展覧会があったときに行ってみた。なんというか独特の世界で、うまく説明できないけれど不思議なパワーに満ちた作品だなと感じたものである。(この「うまく説明できない感じ」は、横尾さんの対談集『見えるものと観えないもの』で、淀川長治さんがばっちり言葉にしてくれている。)今回の『森羅万象展』は、横尾さんの40年の集大成ということで、作品点数も多く、かなり大掛かりなものだということだったから、楽しみだった。
広い木場公園の中を歩きながら、途中の庭園などに寄り道。きれいな花の咲く花壇のほかに、菜園やハーブ畑があり、野草などまで植えられていて、どこか田舎の野原のようなイメージ。「アゲハ、アゲハ」と興奮しながら捕虫網を手に蝶を追いかける少年と父親が先客にいた。ハーブ畑で「カレーのにおいがするな」と不思議に思っていると、その源はカレーの香りのするハーブだった。ハーブでなくとも、野原が多かった頃には、夏になると草の青々したにおいを強く感じたものだった。その感覚を懐かしく感じながら、緑の広場で日光浴したり、木陰で休んでいる人などを横目に美術館へ向かう。しかし、矢印つきの看板は数々あるものの、なかなかそれらしき建物が見えてこない。やはり美術館に向かっているらしきカップルも、いよいよこの先か、という林を越えたところで目の前に広がったグラウンドを前に、「えー、まだ?」と驚いていた。これから行く方へ。東京都現代美術館まではかなり歩きます。
やっと着いた東京都現代美術館はとても広くてきれいだった。美術図書室やカフェ、食堂があり、着いていきなり休憩したくなったが、すでに3時頃だったので、まずは先に展示を見ようと受付へ。最初の展示フロアは3階だという。エスカレーターで上階に向かう。天井の一部がガラス張りになっており、空が見える。
会場には、主に年代を追って作品が展示され、展示室ごとにテーマをまとめてあった(テーマの分類によっては年代は一部混在しているが、ほぼ年代ごとにまとまっていた)。最初の部屋は、横尾さんがグラフィックデザイナーだった60年代に制作されたポスターや、イラスト的な絵を展示。この頃の作品は、私はこれまであまり見たことがなかったので新鮮だった。寺山修司や唐十郎の演劇ポスターなどが多かったが、大胆な色使い、くすっと笑えるブラックなモチーフをアクセントに盛り込んだデザインなど、細部まで見ていて飽きなかった。絵画のほうも、風刺や意図的な表現がかいまみえるように思え、その後の絵から感じられる観念的なイメージとは少々異なるように感じた。絵も、どこかデザイン的だった。
70年代の作品が多い『愛とエロスの部屋』は、氏の精神世界への傾倒を示すかのような絵が多かった。その後、『森と肉体の部屋』『カタストロフィの部屋』『メッセンジャーの部屋』などなどが続く。私はわりとそれぞれの作品をじっくり見ていったので、3階を回るだけでもけっこうな時間がかかってしまった。滝の写真が一面にびっしり埋まっている空間には絵があまりなかったので一緒に入った人達は単なる通路のように通り過ぎていったが、私はしばらく見て回っていたし。横尾さんの絵は、細部におやっと思うような面白みがあるので、ついついじっくり見てしまう。それにしても、表現の幅の広い人だ。それぞれの時期ごとに夢中になっていたものによって、絵が醸す雰囲気がかなり異なるのが面白い。
そんなわけで、来るまでの歩き疲れもあって結構へとへと。3階を見終えたあとの、グッズ売り場でしばし休憩。絵はがきを何枚かと、先に触れた対談集『見えるものと観えないもの』を買う。あとでその本を読み、横尾さんの絵はテーマや意図が先にあるわけでなく、直感的なところから描き始めるものだということを知る。一時期傾倒していた精神世界的なものは、画家宣言して絵に専念するようになってから、あまり興味がなくなったということも。絵を描くこと自体が自分の内面をさらけ出すものだから、というようなことだった。なるほど、と思う。
そう言われても、『方舟に持ち込む一冊の本』『ニューオリンズからの使者』など、計算され緻密に描かれたかのような印象を受ける、テーマ性を感じる絵もある。これがひらめきで描かれたのだとしたら、やはりすごい。
そして、横尾さんの絵につけられたタイトルがまたいい。ことに、出口近くの部屋、『Y字路ー暗夜光路』に、私的にはぐっとくるタイトルが多かった。一例をあげると、「魂と肉体の交差」「一人遊びの旅」「世俗の闇」「朱い水蒸気」「交差する意志」「意志の彷徨」。タイトルと絵を見比べながら、そのタイトルの意味合いを深読みしてみて楽しんだ。ここ数年に描かれたそれらの絵は、これまでの作品にはあまりなかった街の光景。しかも実在の街をもとに描いているらしく(ポラで撮られた写真も絵の一部に貼ってあった)、それらのほとんどが「N市」と示されていた。その日見ていたときは、描かれた街の雰囲気から「N市」とは長崎市なのかと思っていたが、あとで対談集を読んで、故郷の神戸のことかなと思った。その街のY字路ばかりを描いた絵。それらを見ていると、分かれ道の持つ不思議な魅力を感じた。迷いや後悔という観念、寂しさ、懐かしさという思いが、分かれ道という空間には集まっているようにふと思う。
2階で行なわれるはずだった関連イベントは初日に間に合わなかったようで、後日半券を持参すれば見られるとあった。10月まで開催しているから、また来てみよう。今度はゆっくり図書館やカフェも利用してみたい。
土曜は20時まで営業しているので、閉館間際まで食堂でしばし歩き疲れをいやす。
その夜は東京湾花火大会だったので、帰りに遠くからでも見てみようと思っていた。館外へ出ると、遠くから花火の鳴り響く音が聞こえる。音のするほうへ、音のするほうへと、音を頼りに初めての道を歩く。最初は裏道を歩いていたが、方向を見失いそうな気がしてきたので大通りへ戻る。
歩きに歩いて深川までたどりつくと、通りのずっと向こうにようやく花火が見えた。道行く人もあちこちで立ち止まり、打ち上がる花火を見ている。駅近くの交差点あたりでもけっこう見えたが、もうちょっと近くで見たくてさらに歩く。私と同じように花火を目指し歩く人達がぞろぞろ続く。土地の微妙な高低差で、少し手前では見えていたのに、近づいているのに見えないという矛盾も生じ、さらにみんな先へと駆り立てられるように歩く。かなり歩いたところに歩道橋があり、疲れた私はそれに上る。先客、かなりあり。その後も増える。そんなわけで歩道橋の上で身を寄せ合いながら、歓声をあげたりしながら、花火の饗宴を見ていた。
たくさんたくさん歩き、絵を、花火を見た、そんな夏の一日。その夜は歩き疲れですっかり足がだるくなっていた。ビールを飲んでぐっすり、深く、寝た。
(8/16Up dated)
私は『ネアカのオオカミ』らしい。イメージではなく、一頃はやった『動物占い』によるものである。この頃、仕事でおじゃまする事務所に、それぞれの動物の性格の分類が誕生日によってわかる一覧があって、それでわかったのだった。そのとき一緒にいた友人・MUGICOは『感情的なライオン』で、それを見て「うそっ〜!もう一度調べよう」と不満なようだった(笑・確かにMUGICOが本気で怒ると怖いかも)。
動物占いがはやった頃、その動物が示すイメージが妙にそれぞれの人のキャラクターに合っていて、やけに納得すると同時に、また可笑しかった。トボけたところのある友人(タヌキ)、なんだかんだ口うるさいところもあるけれど基本的には平和主義の知りあい(ヒツジ)、おだやかでおとなしいイメージで口調や動作もゆったりしている知人(コアラ)、痩せ気味で頭はきれるがややずるいところがあり立ち回りのうまい男性(黒ヒョウ)、などなど。あくまでも周囲の人の一例で、すべてのことでありませぬ。どちらかというと群れるより、独りでいるほうが性に合っている気がする私も、オオカミというキャラはなんとなく自分的だなと感じるのであった。
半年ほど前に、お菓子のオマケで動物占いのキャラクター『オオカミコギャル』を入手し、以来ケイタイ(ほんとはPHSだけど)につけていた。仕事先でときどき一緒になる女性が先だって、「それなあに?」と聞いてきた。いまどきの女子高の制服姿のオオカミは、オオカミに見えなかったようである。それがきっかけで、彼女も動物占いによるとオオカミだということを知った。
その彼女が、この月曜、来るはずの仕事に来なかった。最初は電車の遅れなどかなと思っていたが、その日とうとう来なく、仕事関連の人は誰も連絡を受けていないようだった。これまで仕事を通じて受けてきた彼女の印象は、責任持ってきっちり仕事をする人というもので、無断で仕事に穴を空けるという人というイメージはまったくなかった。しかもケイタイはずっと留守電で、むろんケイタイメールの返事もない。それで誰もが口を揃えて、「何かあったのかも」と言っていた。実家は遠くで、独り暮らしだと言っていたし、ますます心配である。
こんなとき、日頃から真面目な人は親身に心配してもらえる。しかし、私のように大寝坊による大遅刻などを少なからず体験済みで、それに伴って周囲の方に迷惑をかけたり、少々の遅刻は日常の者は、あまり心配してもらえないであろう。
そんなこんなで、翌々日。その後しばらく彼女と仕事で会うスケジュールではなかったものの、一向に連絡が取れないらしく、仕事先で会った我々は心配し続けていた。もし日曜から具合が悪かったとしたら、すでに4日目。電話もできないぐらい具合が悪く倒れでもしていたら、死んでいるということも……などと最悪のパターンまで考えてしまった。知人は「そこまでいかなくても、入院して意識不明とか」と言う。そんな不安を感じつつも、私はこの週、昼間の仕事のほかに夜からの打ち合わせも数日入っており、けっこうスケジュールがパンパンだったので、心配しつつも仕事に追われていたが、先の知人が「私、明日なら時間とれるから訪ねてみようかな」と言っていた。
こういうとき、独り暮らしのフリーの人間は、もし倒れたりしても、早めに気付いてもらうことはできないな〜、と不安になる。もしものときのために、親しい友人に親戚や大家さんの電話を教えておいたり、部屋の目立つところに連絡先を貼っておいたりしなければ……などと思った。
結局、私たちの仕事を取り仕切っていてくれる会社の人が、彼女の住まいを訪ねてくれた。結果。大家さんにカギを開けてもらったら、部屋にいたそうである。やはり具合は悪かったようだが、入院とかまでではなかったらしい。私たちがやいのやいのと騒いでいたから、訪ねた人ももしものことを考え、緊張していただろうな。
まあ、何はともあれ、よかった、無事で。最近はいやな事件も多いし、事件でなくとも、病気や事故だってあり得るからね。そんなとき、彼女のように心配してもらえるよう、日頃の行動を見直そうと思った私でした。「狼が来たぞ」と言い続けていた子供が、本当に狼が来たときに食べられてしまったという寓話のようにならないためにも。
(8/16up dated)