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巻第十四 平成十四年 二月

※初めての方は一番下からお読みいただくと、日付の順に見られます。


■ねじれた映画・ねじれた夢と現実
/「マルホランド・ドライブ」
(2/20)

 デイヴィッド・リンチ監督による映画「マルホランド・ドライブ」。ハリウッド近くの山を縦断する実在の道の名前がタイトルになっている。映画内で登場人物たちが「モーホランド・ドライヴ」と発音しているのを聞き、日本語的発音との差を感じた私でした。現地で「マルホランド・ドライブ」と言っても、通じないだろうなと思いつつ。ま、それはさておき。

 デイヴィッド・リンチ好きには、ひねくれ者が多いのではと感じるのは私だけだろうか。あるいは、わかりやすさを拒絶する者、というような。少なくとも、映画に「わかりやすさ」「楽しさ」を求めるタイプの人には、リンチの映画はキツイだろう。私はというと、あまりにもわかりやすい単純な映画というものは食傷気味。かといって「わかりにくい」リンチの映画をものすごく好きというわけではないのだが、欠かさず観てみたくなるという、中毒症的なものではある。現実のすべてが理解できたり割り切れることばかりではないだけに、映画にもそういう面があってもいいと思えるのだ。“本物らしく見せた嘘”には白けるが、“嘘っぽい嘘、あるいはなにが真実かわからない嘘”は不思議と魅力的に見える。リンチの映画はそんな意味で私にとってクセになるものだ。

 「マルホランド・ドライブ」は、“わけのわからない”度合いが途中から加速度的に増してくる。そこからがリンチワールドのようなのだが、実をいうと、そこらあたりから妙に眠くなってしまった私です。なんだか催眠にでもかかったような。要所要所はちゃんと観ていたと思うのだけど、ささいなカットなんかを見逃していたかもしれない。ちょっとくやしい。そこに何かキーワードが潜んでいたのかもしれないのにな。見終わってはっきりわかったのは、主演のナオミ・ワッツはうまい女優であるということと、この映画は「ねじれている」ということだ。「ねじれ」ているのは、まず時間という概念。自分と他人のアイデンティテイ。現実と夢。過去と未来。虚構と現実。それらにかけるスパイラルな罠は、リンチワールドお得意の手法だ。

 川勝正幸さんの編集によるパンフレットをあとでじっくり読むと、さまざまな方がさまざまに解釈・分析し、書いた興味深いレビューがてんこ盛り(川勝さん編集のパンフレットは、毎度いい味出してます。今回のはペイパーバック風)。みなさんこの映画をどうまな板に乗せようかと苦心したようだ。「わけわからない」まま見終わってしまったのは私だけではなかったようで、ちょっと安心。何度か観た人が多いようだが、そうやって数回観てしまうという人はこれから増えるのではなかろうか。私ももう一度観てもいいなと考えている。当日は4時半に目覚めてしまい、睡眠不足だったようなので、今度はうとうとしないように万全の体調で臨みたい。

 まあ、「わかろう」と思って観ることすら、無意味なんだろう、この映画ってやつは。そうして魔力にとりつかれてしまうのだ、たぶん。

※アメリカ都市部の旅にはあまり魅力を感じないのだけれど、「マルホランド・ドライブを訪ねるツアー」のチラシにはちょっと食指が動きました。(2/22Up dated)


■デザインの発想(2/13)

 みうらじゅん氏が出演するということで応募していた「奈良学文化講座」の抽選に当たり、週末聞きに行ってきた。会場・日本青年館、題目は「なら見仏記」。いつもだとこの手の内容には、ツッコミ相方として、いとうせいこう氏の存在が欠かせない。で、今回もこっそり出てくるのではと内心期待していたのだが、本当にみうら氏1人だった。もうおひとかた、奈良の興福寺の貫首のお話もあるので、そちらがお目当てで純粋に文化講座あるいは宗教の学習として来る方もいるのであろうが、会場の若手の大部分はみうら氏のおバカな話が目当てだったと思われる。

 トークだけでなく恒例のスライドもやはり使用された。スライド内容は過去何年かでいつか見たことのあるものがほとんどだったが、いつもよりは仏像の話につながるように絞ってあった。いとう氏&みうら氏著の「見仏記」を私が最初に読んだときしびれた発想、“弥勒菩薩のほほ笑みはウルトラマンに通じる”についても、その場で改めて紹介された。前のスライドでもいつかやった気がするが、改めて見ても、みうらさんの発想のとっぴさには笑いながらも妙に感心してしまう。しかも、単におバカなこじつけだというだけでなく、それが本当だということも証明。ウルトラマンサインというのが梵字に似ていることを彼は発見したらしく、かねてから確信を深めていたとか。しかも、初代ウルトラマンのデザインを担当していた人から、「ウルトラマンは弥勒菩薩をモデルにしていると言っている奴がいるが、実は本当だ」と言われたそうだ。ううむ、仏教と仏像、怪獣界に通じていたみうら氏だからこそ、見破ったのであろう。

 確かに怪獣や変身ヒーローもののなかには、なにかがモデルとして存在しているものが多いが、一見したところで元ネタがわかるものもこれまた多いように感じる。だが、ウルトラマンのモデルが菩薩とは、見かけからではちょっとわかりにくいのでは。初代ウルトラマンのデザイナーも、みうらさんも、並の人ではない。と妙に感心する私であった。

 形や音が似ているものに敏感なみうらさんは、そのあれこれについてのおバカネタをスライドで次々披露。仏像のポーズとエマニエル夫人のポーズが同じ、など、真面目な宗教関係者なら少し怒ってしまいそうなネタもあったが、何度見てもおかしい。

 人がなにかを表現するとき、完璧に自分のオリジナルの発想、というのは、実は意外と少ないものだと思う。意識的にしろ無意識にしろ、何かかの影響を受けている、という面は大きいだろう。形を真似るいわゆるパクリはそれこそ無数に存在するが、そこにオリジナルの発想なり味つけを付け加えて、オリジナルを超えてこそ、評価にあたいするものが生まれるのだろう。それがコピーとの差。
 などということをつらつら考えた、週末。
(2/13Up dated)


■文体の男女差とは……?「ちゃうちゃう事件」(2/10)

 前回、文体の男女差について触れた。そのあと、「ちゃうちゃう事件」をふと思い出した。事件と言っても、身近なところで起こったささいなことなのだけれど。私がよく仕事をさせてもらっている事務所で、とある男の人が、とある企業の商品を紹介するホームページのライティングを担当したときのこと。女性が語り手となって展開していく構成として、内容のプレゼンをしたらしい。企業の担当者は女性。そして、ダメだしをくらったらしい。申し訳ないのだが、その理由が笑えた。「ちゃうちゃうが多すぎる」。

 「ちゃうちゃう」と言っても、犬の犬種ではない。「〜しちゃおう!」「〜しちゃった」「〜しちゃう」という、言い回しのことである。ダメだしをくらった男性の名誉のために補足しておくが、一応、仕事はなかなかできる人なのである。だが、「女性の文体」というものをちょっと勘違いしていたようである。相手も男性担当者ならすんなり話は通ったのかもしれない。でもなあ、女性が読んだとき、「女はこんなこと言わない、書かない」という言い回しというのはあるものだ。口語では多少言っているかもしれないが、文面にしたときに違和感を感じる文体というものもある。彼は、男女差を必要以上に意識しすぎてしまったのではないか。その違いというのは、文体やしゃべり言葉で簡単に差異化できない気がする。どちらかというと男女差というのは、そういう表面的なことではなく、考え方の根本、方向性の差のように感じられる。

 このあいだビデオで観た『ハート・オブ・ウーマン』は、そういう観点からすると面白かった。男尊女卑の広告ディレクター、ニック(メル・ギブソン)と、女性マーケット対策のため引き抜かれ入社してきたやり手の女性ダーシー(ヘレン・ハント)が主人公。自分が狙っていたポジションをかすめ取った女性上司の出現に、対抗心を燃やすニックは、口紅やマニキュア、ストッキングといった商品を実際に「お試し」もしたりして努力する。だが、セクシー美女を登場させる広告ばかり作ってきた彼には、発想の転換がなかなかできない。ところが、感電によって、ニックは女性の心の声が聞こえてしまうようになり、「女性はこんなことを考えていたのか!」と当惑、混乱する。最初は悩んでいたものの、その力を利用して「女心のわかるディレクター」として、ダーシーや周りの女性の考えを盗み、仕事に利用していく。とまあそんなお話なんですが、結末はおいといて。この映画の中で印象的だったのが、ダーシーの考えを読み、ナイキの女性部門にニックがプレゼンしたCM。カメラは、1人の女性がジョギングしている姿を追って映しだす。ニックがクライアントに言う。それはきっとナレーションにも一部使われるものだろう。「道路は化粧しろとは言わない。道路は年齢を尋ねない。ゲームではなくスポーツを。ナイキ」。なかなかいい言葉だな、と思った。

(2/13Up dated)


■それは南半球から届いた歌から始まった(2/1)

 「東京流れ者会」という会に行ってきた。知っている人は知っているであろうが、少なくとも私は、ある人から聞かなければ知らなかった。メトロファルスというバンドの存在も、その人から聞いた。

 その人とは、以前トップページでもお尋ね者情報を載せ続けていた、インターネット知り合いでもと南アフリカ在住のCさん。知りあったのは、いとうせいこうさんがネットチェスをやっていたときの掲示板。南アフリカ在住ということで、海外に住む人の暮らしに関心のある私の興味をひいた。日本人の女性であるが、私は実は最初のうち、彼女を男性だと思っていた。彼女もはじめは私を男性だと思っていたというのがまたややこしい。いや、べつにお互い下心があったわけではない(たぶん・笑)。会ったことはなくてメールでのやりとりが中心だったから、それは文章からの推測だ。メールでの文章や掲示板への書き込みなどから、きちんとした男性であろうという推測が働いたわけなのである。「女性っぽい文章」というものがあるかどうかは定かではないし、少なくとも私のまわりではそういった書き方をする人がいないから、文章に「性差」を感じることは日常的に少ないのだが、手がかりが文章しかない場合、わずかなところからそれは感じることができる。男性が女性のふりをしている文章というのは、どこか嘘臭い。無理に女言葉を使おうとしたりして、ふりをしているつもりがばればれなのである。女性らしさをムンムン感じる文章というものは意外と少ないものである。では女性を男性らしく感じさせる(?)文とはいかなるものなのだろう。といっても、わざと男性を装っていたつもりはないのだけれど。文章が「中性的」ということなのだろうか。それがむしろまっとうな気もするのだが……。

 話がそれた。そうそう、Cさんから教えられたバンド、「メトロファルス」。彼らの歌声を私が初めて聴いたのは、当時南半球に暮らしていた彼女が送ってくれた1本のテープによってだった。彼女がどこかで、いとうさんのアルバム『OLEDESM』の廃盤を嘆いていたのを見て、それをネットで中古購入済みだった私が録音テープを送ってあげ、そのお礼にメトロのテープを送ってくれたのだ。おすすめのライブも1度行ってみた。

 そして今年の正月、縁あって初対面。その前にも彼女から「流れ者会」のことを聞いていたのだが、その頃は仕事がありそうで行くのをやめようかと思っていた。しかし。その後、ゲストにいとうせいこうさんもいると聞き、前言撤回する不実な私であった。結局会場ではCさんと巡り会えなかったのだが、最前列の席を私のためにひとつ取っておいてくれたとあとで知り、大変申し訳なく思った。私は初めて行ったので知らなかったのだけど、メトロファルスのボーカルのヨタロウさんの誕生日祝いであるその会、いつも3時間はやるらしい。ずっと立ちっぱなしはちと辛かった。

 でも、いとうさんの散文リーディングやケラのカラオケ、ずぶ濡れボーイズの替え歌ダンス、アイリッシュミュージックの演奏、田口トモロヲさん率いる「じゃがばた」(「じゃがたら」のコピーバンド)のソウルフル&ロックンロールなライブ等々、なかなかに多彩で楽しませてくれる内容。彼らの80年代の活動は私はほとんど生で見ていなくて、懐かしい気持ちとは無縁だったのだけど、純粋に「今」見て楽しませてもらった。好む対象の方達が実際にも友達関係だというのも不思議なものである。やっぱり、感覚がどこか似通っている部分がある人達がつながっていて、それを見る者にもそれは伝わってくるのだろう。

 数年前に南半球のCさんとのやりとりがなければ、行くことがなかったであろうライブ。これもまた不思議な縁。

(2/4Up dated)


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