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巻第六 平成十三年 六月
※初めての方は一番下からお読みいただくと、日付の順に見られます。
■震える音(6/30)
オーストラリアの先住民族、アボリジニの楽器、「ディジリュドゥ」関連のイベントに行ってきました(イベント、および楽器の紹介はこちら→http://www.win.ne.jp/~dinkum/)。このイベントを知ったのは、ときどきのぞき見させてもらっていた、ミュージシャンの白浜久さんのホームページで。ARB時代の白浜さんを知りもせず、ましてやホームページから関心をもったので最近のアルバムもたったの1枚しか聴いておらず、白浜さんのライブに行くのとかはちょっと気後れしてたのですが、アボリジニの楽器とのセッションとは面白そう、と興味をひかれたのであります。とはいうものの、「ディジリュドゥ」などというものがどういうものか、はたまたどんな音を奏でるものなのか、実はまったく知らなかったワタクシ。でも、アボリジニとか先住民族の文化にもともと関心があったので、面白そうと思い行ってみたわけであります。やはりアボリジニ文化に関心のある友人、MUGICOを誘ってみたけれど、都合が悪いとのことだったので1人で参加。会場へ行くまでに木場公園があったので、せっかく歩くなら緑が多い所のほうがいいと、降りだした雨の中をぷらぷらと歩くうち、公園を抜けたあたりで迷子になってしまいました。うろうろしたのに会場がみつからず、思わず帰ろうかと思いましたが会場に電話したどり着く……。蒸し暑さの中歩いたので、汗だくだく。
とまあかなり言い訳がましい書き出しでしたが、行ってみてよかったです。いろんなグループが、30分ぐらいずつの持ち時間で、ディジリュドゥをさまざまなスタイルで演奏していました。私が着いたときは、ジェンベという打楽器とのセッションの真っ最中。力強い打楽器のリズムに混じり、空気を震わすような音が響いている。字にすると間抜けだけど、「ビョ〜〜ンビョ〜〜ン……」というような。形はスイスのホルンみたいな、長いもの。そうか、これが「ディジリュドゥ」か。
それからも、まるで宇宙語(まじめにそんな感じ!)のような音を繰り出すソロの人の演奏や、ラップやシタール、パーカッションとのセッションなどが繰り広げられました。聴けば聴くほど、その震える音の振動が、なんというかパワーを伝えてくれるような感じで。力強さだけでなく、なんとなくヒーリング効果もある感じ。とくにシタールの音とは相性がいいみたいで、とっても気持ちいい音楽を久しぶりに聴かせてもらいました。主宰者の方と白浜さんのギター、会場で写真を展示していた方のピアノのセッションもよかったです。最後に、フリーセッションタイムがあり、十数名の奏者たちが揃って演奏していたのは、迫力満点。すごいなあ。音って空気の振動なんだよなあ、と体で実感するほどに、その場が震えているのでありました。
ディジリュドゥって、演奏するのにすごくパワーがいりそうだなあ。と思いつつ、楽器ベタな私でも、もしかしたらやれないかなあ……などと考えたりもして。下手な運動より体力使いそう。(でも、あとでいろいろ知ると、かなり難しそう……)
あとでスタッフの人に聞いてようやくその音の出し方の基本というのを知ったのですが、息を吹くというよりも、唇を震わせるのだとか。ベースのような音に重なってときどき別の音が響くのは、同時に声を出すからだそうで。この楽器、もともとは、書き文字をもたないアボリジニが伝承の歌などを歌うときに、同時に演奏されるものだったそう。
オーストラリアでは「ガーマ・フェスティバル」という祭りがあり、このディジリュドゥの本場の演奏を聴けたり、奏者たちが習うこともできるのだとか。期間中はキャンプ生活、というのもなんだかワクワク。広い大地で、あの力強い「震える音」を聴けたら、さぞかしパワフルで心地いいだろうなあ……と、がぜん行ってみたくなったが、8月だというので今年は無理。また旅心がうずきだしてしまったのでした。
(7/2Up dated)
■借金取り立ての盗み聞き(6/25)
そろそろ住まいの外装補修工事も終わったようだが、この日はまだ細部の手直しがあるらしく、朝から工事の人たちが住まいの周りをうろうろしていた。もう騒音はそれほどしなくなったが、なんとなく落ち着かないのでやはり外で仕事をすることに(その日帰ってくると工事のための足場が解体されていて、窓の外を人が通り中を見られる心配がなくなり、翌日久し振りにカーテンを開けて過ごす)。週末に歯の詰め物が取れてしまったので、歯医者も行かねばならないし。午後から夕方まで、近所のカフェで仕事。途中、ご近所友達のOが私を見つけて声をかけに入ってきて、翌日の夕食の約束をする。その後、歯医者へ。仕事の残りをその日のうちに終わらせておきたかったので、夕食のため入ったレストランで、ついでに仕事の続きをする。
やかましかった隣のテーブルのおばちゃん客が帰ったあと、そこにやってきた男性三人のうち一人は、関西弁だった。聞く気はなくとも、その人の声が大きいので耳に入ってきてしまったのだが、話の様子からすると関西弁の男は借金の取り立てに来たようだった。怖いやーさんという感じではなく口調ではそれほど脅しているふうではないが、パンチパーマで、やはりそれっぽい雰囲気はある。私からは背中しか見えない男性が借金をした本人のようで、相手に一方的に押しまくられていて、彼の声はあまり聞こえない。まあ、返していないのじゃ反論もあまりできないよね。彼はどうやら400万ほどの借金をしてしまったらしい。それがどういう借金なのかはよくわからなかったけれど、関西弁の男の、「連絡とれなかったってどういうことや。すぐ返せなくても、連絡ぐらいできるやろ。それが筋っていうもんやろ」といった、まあまっとうな押しが延々と続く。
関西男の一人演説が30分ほども続いていただろうか。話はそこそこついたようで、借金男は席を立つ。店の支払いを自分がもとうとしたようだが、関西男は「これはええって。それよりな、まず90万。ちゃんと連絡しろや。な?」と、声をかけていた。頭を下げて借金男は先に帰り、関西男ともう一人(こちらは普通っぽい人)は残って夕飯を食べていた。ウエイトレスに冗談なども言っていたので、そんなに怖い印象の男ではなかったが、借金男にとっては怖い相手であろう。
んー、個人的に借りたのか、サラ金かわからないが、うっかり借金するとこういうことになるのであろう、という現実を見てしまった。借金男、だいじょうぶでしょうかねえ。
(6/27Up dated)
■盛者必衰(6/24)
久し振りに近所のレンタルビデオ屋へ行ってみると、近々閉店するため、レンタルビデオの販売処分をしていた。あらら。いつもは駅前の別のレンタル店を利用していて、ここは最近あまり来ていなかったのだが、やっぱり儲かってなかったのね。もうレンタルはしていなく、販売のみだったが、せっかくだから目ぼしい物があれば買おうかとチェックする。新作や大作はまっさきに売れてしまったようで、いまいちぱっとしない物ばかり残っている。迷った末、しばらく前に一度見たきりの『フラッシュダンス』と『コクーン2』を購入。改めて観てみてもいいかなと思ったからだ。
このビデオ屋に限らず、最近つぶれていく店が多い。近所では、サーティワンやマクドナルドでさえも撤退した場所があり、なかなかおいしかった新しい蕎麦屋などもいつのまにか別の店になっていた。都心ではその傾向はさらに強いようで、しばらくぶりに行くと様変わりしている店が多い。その一方で、できたばかりで客を集めている店もある。
この違いについてふと考えた。さびれていく、つぶれていく店は、やはりそれなりに理由があったのであろうということだ。
たとえば、つぶれてしまった、あるカラオケ店。スピーカーの質が悪く、他のカラオケ店ではいい音で聞こえるソフトが、そこだとすごくちゃちく聞こえる。で、私と友人はこの店はあまり利用しなくなっていた。たぶん他の客もそうだったのだろう。
常連となっている飲み屋は、開店してすぐ行くか予約を入れないと、並ぶ羽目になってしまうことが多い。それでもここにまた行きたくなるのは、料理がおいしくて、日本酒の品揃えが多く季節代わりで楽しめ、従業員のサービスが気持ちいいからだ。おまけとしては、感じのよさとルックスの好みで「ナンバーワン」「ナンバーツー」と私と友人がひそかに呼んでいる従業員がいるということもある(私・談:「ホストクラブじゃないんだから……」友人:「ホストみたいなものじゃん。この店、厨房もフロアも男ばっかで」)。
流行る店と流行らない店、その差はちょっとしたことが要因なのだろうけど、それが大きいのだ。
先のレンタルビデオ屋にしてもそうだ。小奇麗でないのはまあ仕方ないにしても、返却するのは昼12時から深夜1時までの開店時間に限られており、朝方返せなくてやや不便。品揃えの面もあまり充実しておらず、中途半端だった。駅前の店より若干料金は低いのだが、新作本数が少なく、いつ行ってもレンタル中、ということが多かった。で、新作が観たいときは自然と別の店へ足が向いてしまうことになる。旧作もいまいち。映画館で観たことなくて、探していた『ホテル・ニューハンプシャー』もここにはなくて、駅前で借りたし。全体に、ヨーロッパ映画やマイナーな作品の品揃えが弱く、ハリウッド系大作、アニメ、アダルト中心。ここで借りている他の客を見かけるときは、アダルトビデオコーナーにいる人が多かったしなー。
週末、買った『フラッシュダンス』を部屋で観る。映画館で観たのは、主人公のアレックス(ジェニファー・ビールス)同様、自分の将来や夢について迷いのあった頃。この映画を観てけっこう励まされたものだったなー、とか、あの頃の私は、単純で青かったなーと思い出すのだった。街が様変わりしていくように、人間もいろいろ変化していくのである。
この映画が作られた83年当時の私なら、同時期(84年)に作られた『ホテル・ニューハンプシャー』みたいな映画には興味を持たなかったろうなと考える。実際、当時は知らなかったし。こちらは、“夢”の重さに押しつぶされていきながらもなんとか現実と折り合いをつけ生きていく人たち(ファミリー)を描いた映画だ。ちなみに、この映画の原題は、『KEEP PASSING OPEN THE WINDOWS』。映画の中でお父さんのセリフにもあったが、「開いている窓は見過ごせ」、つまり、「絶望しても窓から飛び降りるな」ということだ。含みのある言葉である。
(6/27Up dated)
■先日観た映画『マレーナ』『ハムナプトラ2』のことなど
(6/22)金曜朝、またもや外装補修工事が始まった。今度は屋根のようだ。のしのし人が屋根を歩く気配が、すぐ上でしている。やがてドリルの音。うー、たまらん。かくしてまた、寝起き30分で外出の用意をし、逃げるように部屋をあとにする。水・木と天気が悪かったので工事は休みだったから、もう終わったかと思って油断した。まあ、住まいの外観がきれいになるのでありがたいことなのだから我慢せねば。そしてまたもや朝から住居難民、近所のカフェのはしご。仕事を少々、それからこの文などをノートパソコンで打つ。
水曜に映画を2本見た。その印象などを書く。その日はビックカメラで、新しいiブックも見てきた。白いやつ。見たらバイオの支払いが終わったばかりだというのに欲しくなってしまった。値段もついに20万を切り、新発売のものにしてはお手ごろ。もう少し早くあれが発売されていたら買っていたのに……。やっぱりウインドウズよりマックを使い慣れてるからねー。
◆
◎映画『マレーナ』を観て(6/20)
深夜番組「虎ノ門」で、先般、映画監督の井筒さんがこの映画を観たいと言っていた。理由は「きれいなねーちゃんが出るから」。井筒さんがそう言う前から私もこの映画に関心があったのだが、どうも私の感覚、おやじ寄りなのかなあ。いや、別に同じ理由で観たかったわけではないのだけれど。映画館の予告編などで、けっこう面白そうかなと思っていたのだ。監督は、『ニュー・シネマ・パラダイス』のジュゼッペ・トルナトーレだし。
というわけで、水曜のレディスデーの映画館へ。
第二次大戦下のイタリア、シチリア島。主人公の12歳の少年、レナートが年上の人妻に思いを寄せるあたりから物語は始まる。その人妻、マレーナ役のモニカ・ベルッチ、歩くだけで少年や大人の男を悩殺するいいオンナ、という設定。道行く男の誰もが降り向く、というのはちょっとできすぎ、という感じはあるものの、確かにその歩きっぷりはいい。
中盤までは、思春期の少年が美しい人妻に憧れる気持ちがコミカルに描かれる。とはいうものの、のぞき、下着ドロ、その下着をかぶる……などストーカー的(というか、そのものだな)行為、妄想の所産がいささかこわくはあるが、レナート少年の大きな瞳、彼女が聴いていたレコードを買うために店で歌うエピソード、下着ドロが親にばれて大目玉をくらうシーンなどが笑いを誘い、陰湿な感じにはならずにいる。主人公の「見つめるだけの演技ができる目」の少年探しに苦心したというが、確かにレナート少年のあの表情は、少年だから許される設定にうまくはまっていた。
それにしても、息子をしかるときの父親のぶち方がはげしくてコミカルでおかしかった。日本なんかだと、今、ああいうふうに息子をしかれる親がどれだけいるだろうか。見てみぬふりをするか、どうしかっていいかわからない親が多いのでは。その反面で、「あいつは病気じゃない、一発×××てやればいいんだ」と妻と言い合うなんて、なんとイタリア的(?)な父親!
いろんな馬鹿馬鹿しいエピソードと妄想の所産のサイケデリックかつシネマチック(?)な映像にカラ笑いしつつ、少々あきれつつあった頃、物語のトーンは一変する。大戦下にあった戦局が、のどかなシチリア島をも巻き込んでいく。その状況下でレナート少年は、マレーナが未亡人となり生きるために身をやつしていくのを知ってしまう。でも彼は、大人の女のそうした側面を知っても、彼女に幻滅はしなかった。彼女の流す涙も知っていたからかもしれない。考えようによってはやはりストーカー的思い込みだが、「彼女が悪いのではない、仕方がないのだ。生きるのにはお金がいるのだ」ということを知ってゆく。そして早く大人になって彼女を救い出すのだと考える。
だがやはり、レナートはマレーナを見つめることしかできない。そんな折、さまざまな苦難がマレーナを襲う。町の人の中傷をあびるマレーナが、ほんとうは父親思いで戦死した夫を思い続けていることを、レナートだけは知っている。やがて、決定的な事件が起きる。このときレナート少年が彼女をついに救うのではと一瞬期待したのだが、結局彼はなにもできなかった。話はここまでかと思うと、彼は、彼にしかできないやり方で彼女を救うのだった。
言葉にするとちょっとクサイけれど、「相手のすべてを愛せるか?」「その愛は相手を守れるか?」この映画は、そんなテーマを暗に提示する。ただ純粋なだけではそうはできないだろう。人間くさい部分も認めなければ。それは「力」によらなくてもできること。
ラストのほうで村人が彼女に再び接するシーンはやや安易な気がしたが、なかなか面白い映画だったと思った。
映画が終わって、後ろの席に居た20代前半ぐらいの女性グループ、「わけわかんない」「ちょーつまんなかった」と席を立つ。こーゆー映画って知らないで観に来たのだろうけど、自分がいくらつまんなかったからってそう吐き捨てていくなよ。見たあとの礼儀としてさ。と思う私でありました。
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◎『ハムナプトラ2』を観て(6/20)
原題、『ザ・マミー・リターンズ』。あのミイラたちが帰ってきた! 前作をすでに観て楽しんでいた私としては、やっぱり続編もビデオではなくスクリーンで観たかった。それが醍醐味、という種類の映画ですからねえ。
が、見終わって全体の印象としては、前作のほうが構成的には楽しめる作りだったかなという感じ。脚本がおおざっぱで、先の予想がすぐついてしまうところがその要因。今回は続編なので、冒頭から見どころをガンガン打ち出していくのは効果的かなと思ったが、それ以降もあまり立て続けで、「驚かし」的なものばかりだと、ちょっとウルサイ感じがする。ハムナプトラの聖地を守っていたアーディス・ベイがロンドンに登場する仕方もちょっと安易だったし。前作を観ていない人達には話が見えてこないだろう。
中盤、ジャングルでのピグミー・ミイラとの戦いのあたりはとくに、私的には退屈しだして、ちょっと眠気に襲われ失神しそうになりましたっけ。
全体的に、前作のときのような「次になにが起こるかわからない」ワクワク感が味わえなかったのは少々残念。とはいえ、クライマックスにスコーピオン・キングがああいう形で登場するとは想像できなかったけれど(観た人ならわかるはず・笑)。ちょっとこれはもうマンガ、思わず笑っちゃいました。
しかしなあ、マミー(母)がマミー(ミイラ)をやっつける。まさしくマミーの映画です。母となったエブリン、強し。今回はブレンダン・フレイザーの影がうすかったなあ。愛に見捨てられた悪役神官・イムホテップもちょっと哀れでもありながらも、あまり悪役ぶりを発揮していなかったような。でもまあ、エンターテインメント映画としては、映画館にいる間は楽しめるものでした。出たらなにも残らなかったけど……。その日はレディス・デーで1000円だったから、その値段ならそこそこかな。3作目の制作がすでに決まっているとか。この続編をうわまわる馬鹿馬鹿しさでいくのか、どうか。ある意味ちょっと期待がもてたりして。
(6/23AM Up date)
■ちょっと前のことですが・・・01神田祭/子ども神輿ギャラリー
(先月、5月12日の神田祭の朝、神田に用事があり、ついでにパチリ)
▼まだちいさくて神輿をかつげない女の子。
でもほかの行事に参加するようで、その前に腹ごしらえ?
※子どもの話で、最近知人から聞いておもしろかったこと。
母親が息子に「そういう問題じゃないでしょ!」と怒っていたら、
それを聞いたその3歳の息子、「さて問題です!池袋から●●まで、
山手線にはいくつ駅があるでしょうか!」(←彼は電車好き)
母、「だから、そういう問題じゃないのよ!」父、苦笑。だそうです。
■住居難民、ご近所大(?)移動(6/19)先週末から、住まいの外壁補修工事が始まり、うるさくてかなわない。いくら雨続きで予定が遅れてたからといって、なにも土曜の朝8時から工事を始めなくたっていいじゃないか。騒音にたまりかねて、外へ脱出。パソコンで打たねばならない仕事があったので、ノートパソコンを喫茶へ持ち込み、そこでやる。日曜はつかのまの安息だったものの、気が抜けて仕事せず。月曜朝8時より再び工事。また午前からノートパソコン持参で喫茶へ脱出。ノートパソコンを買ってあってよかった。月、火曜と、ご近所のいろいろなコーヒーショップをはしごする。バッテリーが最大4時間しかもたないので、一度数時間使ってから家に戻り充電し、そのあいだに昼食をとり、チャージされたころまたそれを取りに行きまた別の店へ行く。そんな2日間。だが、家でやるよりもこれがはかどる。しかも平日の午前中のドトールやミスタードーナツ、その他カフェはすいていて新鮮であった。どこかに、電源があってコード差し込めるカフェがあるといいな……。
夜、久しぶりにご近所友達のOと夕食。ここのところそんなわけで一人で仕事をしていたので、約1週間ぶりに大いにしゃべりまくる。
先月末も1週間半ほど人とほとんどしゃべらず家で仕事していたが、そのあと続けさまに仕事で人と会っているときなどに、ふたつの物事(単語や文節)を言おうとすると、なんだか口から出てくる言葉はそれがミックスされ、短縮されてしまうということがときどきあった。たとえばであるが、「飴、いる?」を「ある?」と言ってしまうような。頭ではちゃんと言っているつもりなのだが、、、、。人間、あまりしゃべらずにいると、しゃべる能力も退化するのかもしれない。しゃべらねば。って、無理して話をするべきものでもないのだが。
(6/20up dated)
今年の誕生日は、葛西臨海公園の水族館へ行き(実は行くのは初めて)、大観覧車に乗った。完ぺきなデートコースだが、同行したのは例年のごとく女友達であった。まあ、いいってことよ。U子から、プレゼントにリクエストした、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』のビデオをもらう。サンキュー。
昨年、品川水族館に行って以来、なんだか私は水族館好きになってしまったのである。といってもそれほど回数は行ってないが。連休には八景島の水族館へ行った。シロイルカやセイウチのショーも楽しかったけれど、アザラシの泳ぎが“なごみ泳法”で気に入ってしまった。下を向いて水槽の端から端まで行くと、ターン。今度は上を向いて戻ってくるのだ。その繰り返し。しばし笑いながら見ていた。クラゲのゆらゆら脱力感も好きだ。
さて葛西の水族館はというと。東京湾近辺の魚を主に見せているとのことで、やや地味めな感じはある。回遊できるドーナツ型の大水槽を泳ぐのは、マグロやカツオだ。ものすごく大きなマグロが何匹かおりそれは目立つものの、他は見た目的には、色みといい泳ぎ方といいプリティさといい、他の水族館にあるような“華やかさ”は弱い。ところが。マグロの食餌ショータイムになり、それを見ると。餌を狙って、先程とは打って変わってすばやい動きを見せるマグロども。とくに、大きさではかなわない小さめのやつらが大活躍。餌めがけてすばやく上昇したかと思うと、クイックターンして戻ってくる。その見事な動きには目をうばわれた。江戸っ子が気が短いとかって、こういうすばしっこいマグロやカツオをよく食べてるからか? などともふと思ったりして。私の新説:食物連鎖の中、それぞれの生物の性質も受け継がれる?
外でのペンギンのごはんタイムは、マグロの勢いとはやや違うかわいらしさはあるものの、こちらもやはり餌を狙うのはすばしっこく貪欲。ぽてぽてと地上を歩いていたペンギン達が、水に投げ込まれた餌を追って勢い良く泳いでいく。食餌が終わるとまたぽてぽてに戻る。
ほかのコーナーで目についたのは、ふだんスーパーで“死んだ”状態を見慣れているアジやイワシ。生きているアジやイワシって、透き通って銀色に輝いていて、とても奇麗だ。死んだ状態のほうを見慣れているって、なんだか不思議な感覚だった。生きている魚のほうに違和感をもつという、逆転してしまった感覚。
生き物にとっては、「食べること=生きること」。魚達の力強い食餌シーンを見て、改めてそうしみじみ感じた。人間は、命の根源である「食」を、あまりにもたやすく得られてしまうようになり、生きようとする生命力が弱ってきているように思える。
混雑のためカップルと相乗りになってしまった観覧車から地上を眺めつつ、隣のゴンドラのかわいい子どもに手を振りつつ、そんなことを考えていた、2001年の誕生日であった。
(6/20up dated)