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巻第五 平成十三年 五月
※初めての方は一番下からお読みいただくと、日付の順に見られます。
■許すこと、語り継ぐこと(5/31)
前回書いたことで、書き足りない部分があったのでそれについて書く。
外国で暮らすこと、異なる文化に身を置くことに憧れるからといって、私は日本が嫌いなわけではない。むしろ日本の風土や風習、文化は好きだし、守って大切にしていくべきだと感じている。
ただ、日本よりは外国の方が、幼いころから個人の考えについて語りあい、多様な考え方について話しあう社会環境の素地があると思えるだけである。どの国でも、民族的な差別はいまだにあるのだろうけどさ、単一民族の日本人は特に、他のいろんな民族性、多様性を認めるという力が弱いように感じる。でもこの頃は日本で暮らす外国人も増えてきたし、少しは受け入れる方向性になってきたのかもしれない。歴史を知らない、ということもあるかもしれないけれど、“知らない”ぶんだけ、偏見を持っていない若者たちもいる。一方で、一部の年配者たちのなかには、特定の国の人たちに偏見を持っている人がいたりする。うちの父は、第二次大戦の敗戦当時、中国とソ連の国境近辺にいて侵攻を受けたためだろう、ソ連のことがニュースで話題になると、「ソ連はずるい奴等の国なんだ」と時々言っていた。自分が受けた体験からの反感が、対象の全民族にまで波及してしまう。そういう高齢者は多いと思う。でも、個人と民族的な問題は関連や影響はあってもイコールではない。反感を引きずるだけじゃなくて、過去をどう未来に生かすかが問題だ。
大人になって、ようやくわかったことがある。過去や歴史は、忘れないために存在するのではなく、そこから学ぶためにあるのだと。学生のときには、それがわからなかった。だから、親の教えや考えに対し“そんなの古い”と反発したし、歴史の年号やあった事件名なんか覚えても役にたたないと思っていた。違うのだ。覚えるべきだったのではなく、そこから考えるべきだったのだ。
最近私は、伝統を守り続けてきた人や、長く生きてさまざまな体験をしてきた人たちから“聞くこと”に大いなる関心を持っている。プライベートや仕事でいろいろな人と会ったり、話を聞くことがあると、「自分の子供にはあまりこんな話をしたことがない」という言葉を幾度か聞かされてきた。一番身近な人たちにすら話す機会のない“言葉”は、誰かが聞いてあげなければ失われていってしまう。私自身、母や父とは自分の思いをうまく語りあえなかったし、親から聞くことはもうできない。それで、他の人たちから聞こうと思うのかもしれない。そうして“聞いたこと”をまた誰かに届けたくて、書いたり語ったりし続けているのだと思う。親から受け継いだことが不十分でも、子供を産まなくても、そうした受け継ぎ方もあるだろう、と。
そんなふうにあれから感じていたら、その思いとシンクロするようなイベントに顔を出すことになった。友人であり秘境女の会・会長のMUGICOから誘われた、トークイベントだ。聴き手は田口ランディさん、ゲストはアイヌのシャーマンのアシリ・レラさん、“聴くことの時代『語り継ぎたい叡智』”。アシリ・レラさんは、ランディさんの著書に登場していた方で、読んだときに「この人の声を聞いてみたい」と私は思っていたのだった。以前、雑誌でこのイベント案内を見て関心はあったのだが、数千円するのでちょっと迷っていた。でも、アシリ・レラさんはMUGICOの出身地のすぐそば(北海道・二風谷)の生まれということもあり、彼女も大いに関心があるいうことだったので、一緒に行ってみることにした。
そしたら、なんとまあ。会場の文京区シビック・ホールのロビーは長蛇の列。ランディさんのメールマガジンや著書の読者が多いのだろうか。収容数1800名ということだが、ほぼ満席だった。ランディさんはイメージしていたより小柄な人。話しぶりを聞いていると、明るいのだけれどすごく繊細な人という印象だった。
ランディさんがアシリ・レラさんとさまざま話しているうち感極まって声が詰まってしまう場面があり、「私は母とこんなふうに話をあまりしてこなかったんで、それでレラさんと話しているのかな」というふうなことを言った。そのあたりが私の思いと近くて、ああ、やはりそう感じる人は私以外にもいるのだと思った。
アイヌ民族が差別を受けてきたことに触れ、ランディさんがレラさんに尋ねたことのひとつに、「そんなに差別されてきたのに、どうして、日本人のみんなを助けたいって、祈りを捧げられるの?」という疑問があった。その答えをはっきりと覚えてはいないのだけれど、「助けられたがっている人たちは大勢いて、その人たちの痛みが伝わってくると、助けたいなあと思う」というようなことだったような。許すこと。それは自己を滅したり過去を忘れようとすることではなくて、逃げずに向き合うことなのだろう。
25年ぶりに東京に来て、以前来たときに比べれば人々のアイヌに対する偏見も減り、変わってきたなあと感じたとも言っていた。レラさんのその話ぶりからだけでも包容力、強い母性が感じられ、存在感のある方だった。
「このまま自然をないがしろにしていけば地球は滅びる。でも、自然を敬い、心の会話をし、人が変われば地球も変わる」とも言っていた。考え、文化、知恵などを伝えることの大切さを語るとともに、「生活のない文化は滅びる。母から子に伝えられる文化だけが残っていく」と語っていたのが印象的だった。
イベント終了後、ロビーがやたらと込んでいると思ったら、聴衆、特に若い女性がレラさんを取り巻き、握手を求めていた。精神的な強さ、母性の強い力にみんなあやかりたいのかな。
最近の日本を見ていると、自分が日本人であることにあまり誇りを持てなくなってきていたけれど、レラさんの考え方に触れて、もう少し日本という国や日本人を信頼してもいいかなと思えてきた。そして、伝えていくことの大切さを改めてかみしめた。日本がどうなっていくかは、私たち一人ひとりの肩にかかっているけれど。
(6/1Up dated)
奇妙な夢を見た。田中真紀子外相が街にやってきて、その場にたまたま居合わせた私と女性の知人は、もっとよく見ようとうろうろする。夢の中の真紀子さんは、テレビで見るより美人だったような。そのうち、人込みをかき分け真紀子さんは遠くへ。で、なんでそんなことになったか理由はよく覚えていないのだが、真紀子さんの側近みたいな男の人を、知人が追いかけ始める。そのあとを追う私。よくわからない展開だ。ようやく追いつき、呼び止めた男の人になぜか笑顔で名刺を差し出す知人。戸惑いながらも笑顔で応える男性、その顔はなんと高校時代の、とある同級生だった。
そこで目が覚めた。一体何なんだ。
時計はまだ5時。前夜は睡眠不足の余波で23時前にはテレビをつけたまま眠り込んでしまったので、目覚めるのが早かったようだ。しばらく目を閉じて夢の続きが訪れるのを待ってみたが、すっかり目が冴えてしまったので起きることにした。奇妙な夢のことが頭に残っていて、なんでそんな夢を見たのかなとふと考えた。
鮮明に覚えている夢は、私にとってはときに不思議な意味を持つことがある。この夢ももしかして? という気がした。でも、よくわからない。夢に出てきた知人とは最近ご無沙汰しているので、「そろそろメールとかしなきゃ」という深層心理が働いたのかとも思える。だが、男性の方は、別に異性として好きだったとか、そういう相手ではないので、特に再会したいという存在ではない。あ、でも、そういえば先日棚を整理していたら、久しく目にしていなかった懐かしい写真の数々が出てきて、その中に高校時代や同窓会の写真もあって、あの男の人も写ってたなあ。それで、同窓会のときの楽しかった会話なんかを久しぶりに思い返してたりしたっけ。で、その彼は、私の友人・ハルに熱をあげていたけど振られた相手なのだった。同窓会では惚れてた相手に再会してうれしそうにハルに話しかけていたっけなー。そのハルは現在カナダに住む、一児の母。
そーいや、夢に出てきた知人も、アメリカ在住の一児の母である。真紀子さんは現在、外務省の大臣……。無理やりこじつけると、この夢は“外国”というキーワードでどこかつながっているような? うーむ。
外国といえば、こないだ新大久保で飲んでいて、知人達と外国の話になった。そのときいろいろ話していた流れで私は、“もし子供を生むようなことがあったら、日本ではなく外国で育てたいな”というようなことを言った。これからの日本で育つことが、子供にとって幸せとは思いにくくなってきているのだ。もちろん、日本で育つ子供がすべて不幸だとは思わないし、外国で育ったからって幸せなわけじゃない。そもそも自分が子供を生むかどうかすらわからない。暮らすとなれば、外から見ているだけではわからない不自由もいろいろあるだろう。でも、この夢について考えていて、自分が心の奥で望んでいることが少し見えてきてしまった。強い願望ではないけれど。ふーーーむ。
あと、真紀子さんといえば、この頃、国会中継などをテレビで観た視聴者から「いじめるな」などという苦情が寄せられるとか。だが、それってちょっと違うんじゃない、という気がする。政治のなかには確かにいじめに近い人間関係もあるだろう。だが、そこはいじめとかそういう問題でなく、討議をし、話しあう場である。討議、議論はけんかではなく、話しあうものだ。政治家だけじゃなく、日本人、大人も含め最近の若者にはこの“話しあい”ができない人が増えているように感じる。そもそも、小さいうちからそうした場をほとんど与えられなかったのが一因じゃないかと私は思う。そうして、今度はいじめが社会問題化すると、“みんなと同じ”なら問題ないと、手をつないでゴールすることがいいかのような極論に走る。違う意見もあることを認めつつ、それでいて自分なりの考えもきっちり持つ。そうしたことが“個を認める”とか、“話しあう”ってことだろう。
そうはできない人々が起こす事件が目に付く昨今、余計に日本を支える次代の子供たちのことが気になってしまう。でも、まずは大人や自分が実践しなきゃね。
(5/30 Up dated)
昨日はカフェにノートパソコンを持ち込んでホームページの続きを書こうとしたが、その前にちょっと読書して集中力を高めてから……と本を読んでいると、ご近所友だちのOが私を見つけて店に入ってきた。先週はほとんど地元で過ごしていて、おしゃべりする相手がいなかったので、久々にしゃべる相手が現れてちょっとうれしかった。彼女は昨年末ぐらいから体調をくずしていたので、ここのところ遊びに誘うのを遠慮していた。1ヵ月ぶりぐらいに会った彼女は元気そうだったが、その日はだんなのほうが具合が悪くなり、今点滴を打ってもらいにいっているとのことだった。なんだか最近、周囲ではそんな話が多い。元気なときはあまり健康のありがたみを感じないけれど、やっぱり健康が一番だよなあ。私の場合は、ここ数日目が痛むのがちと心配。もし目が見えなくなったら好きな映画も観られなくなってしまうよー。
まあ、ともあれ、昨日の続き。◆
◎『ミリオンダラー・ホテル』を観て
ヴィム・ヴェンダースの監督作品はわりと私の好みに合う。特に『ベルリン・天使の詩』『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』『パリ・テキサス』は何度でも観たくなる魅力がある。そんなわけで最新監督作であるこの映画も観てみたかったのだが、雑誌の映画評などを見渡すと、評判はあまりかんばしくないようだった。でも好きな監督作品なので、駄目もとで観に行ってみたのだ。そしたらどうだ、私にとってはけっこうよかったではないか。こうも巷の映画評と自分の感覚がずれているとちょっとどうかなとも思うのだが。感動するとかいう感覚とは少し違うのだけれど、私的には、前出の3作品に次いでぐらいに好き。
ヴェンダース監督作品の魅力のひとつでもある映像の美しさはこの映画でもやはり際立っていたし。全体的に暗いトーンのなかに、ときに鮮やかな映像が差し挟まれ、シーンの印象を際立たせる。夜明けのブルー、血の赤……。沈んで暗いはずのホテル内のシーンでさえも、光と影の強いコントラストが対象をくっきりと映し出す。クリアな画像という意味ではない。美意識を感じる映像とでもいうのかな。
でも、そんな映像美以上に魅力的だったのが、「ミリオンダラー・ホテル」に集う人々の不思議な人間関係とそれぞれのキャラクターだ。それらは一見ファンタジックに描かれてはいるが、「静かな狂気」を多分にはらんでいる。さびれたホテルの住人たちは、はたから見ると変人ばかり。でも、こうした空間や人物は、実際の社会に照らし合わせてみると実は異質なものではなくて、現代社会にはごくありふれた存在という気がしてくる。ミリオンダラー・ホテルは現代社会(アメリカ)の縮図のようだ。ちなみにこの映画は『カッコーの巣の上で』へのオマージュでもあるらしい。ジェロニモというネイティブアメリカンはあの映画を彷彿させる存在で、精神病院がホテルに置き換えられたような状況である。
さまざまな変人たちが登場する物語だが、主軸となるのは、エロイーズ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)とトムトム(ジェレミー・デイヴィス)の間に生まれる複雑な愛情。『ベルリン・天使の詩』に相通じる、現代のお伽噺といった感だが、この映画では脇役たちの存在の方が光っていたように思う。ことに、変人たちの中、唯一まっとうな存在であるはずのFBI捜査官、スキナー(メル・ギブソン)の役どころがよかった。この役のギブソン、最初は堅物で嫌なやつだったのに、殺人犯探しに行き詰まるうち、だんだん人間臭さを露呈していき、一種“やばい”感じになっていく。まともに見えた彼も、実はとある“不具”を抱えていたという設定も面白い。完全な人間なんていない、ということも暗に示しているのかもしれない。これまでメル・ギブソンの役柄や演技って、いろんな意味で正統派すぎて、あまり好きではなかったけれど、今回の役で初めて好きになったなあ。
テーマ的には生と死、狂気と正気、といった相反するけれど実は結びつきが深く、似た種類のものを描いている。謎解きの要素も含んでいるけれど、その面白みを追求するというよりはむしろ、『パリ・テキサス』のように謎が徐々に明かされていくうちに、そこにひそむ人間関係も明らかになっていくという展開。一歩間違えると陰鬱とした内容に陥りそうな感じだが、ユーモアがところどころスパイス的に利いていて、そのさじ加減が私は好きだった。人間の心の可笑しさと寂しさを、さまざまな角度から見せてくれる一編だ。
※ひと言:トムトムの髪型を最初見て連想したのは、「サリーちゃんのパパ」(笑)。それと、感心したのが、自分をジョン・レノンだと自称している変人のディキシー役のピーター・ストーメアの演技。レノンのしゃべり方、歌い方にうりふたつである。
◆
◎『ショコラ』を観て
ジョニー・デップが出演するということで気にはなっていたが、タイトルからしていかにも“甘ったるい”ラブストーリーという気がして、観るのをためらっていた映画だった。
ところが先日、週末の深夜番組「虎ノ門」で、井筒監督が評価していたのを見て考えが変わった。そのコーナーは監督が自腹で映画を観て、そのぶん好きなことを言い放題、という内容。実は井筒さんの評価内容にはわりと共感するものがあって、勝手に親しみを感じているのでした。そういう点でいえば『トラフィック』も井筒さんの評価は辛かったみたいだし、私の感性と近いのかもしれないとも思ったりして。その井筒さんが、「この映画は欲望を肯定する映画やねん。配給会社のいまの売り出し方は間違うとる。癒しの映画とかいうとるけど、ちゃうねんて。もっと欲望を持て、っていう、ムラムラする映画なんですわ」というようなことを言っていた。別に「ムラムラ」というキーワードに惹かれたわけではないが、このひと言で観てみたくなったのだった。それに、監督は『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のラッセ・ハルストレムだということをそのとき初めて知った。うーん、あの監督作品なら、単なるラブストーリーなわけがない! というわけで、さっそく翌週観にいってみた。
内容以前にまず驚いたのは、中盤にいよいよ登場したジョニー・デップが、これまでのどんな作品の役柄よりも笑顔をめいっぱいふりまいていたこと。笑顔の大盤振る舞い。そういう役柄だったのかもしれないが。彼のこれまでの登場作品のなかでは、眉間にしわが寄るような「考える」あるいは「困ったような」表情が定番だった。だから、あまりにもやさしげな笑顔などを随所で見せられると、別に私に向けて笑いかけているわけではないのに、落ち着かなくなってしまう。いやあ、驚いた。彼のあんな表情をたっぷり見られただけでも、この映画を観たかいがあるというものです。それに、もっと出番の少ない、カメオ出演程度のものと勝手に思っていたが、意外とメインの人物で出番も多かったのもうれしかったりした。本人が実際弾いているというギターの場面もとっておきのシーン。
そんなこともプラスしたわけばかりでもないだろうが、全編観終わったあと、明るい気分に。なかなかよい映画ですわ。食がエロチックな魔力を発揮し、人に幸福感を与えていくさまを描く、不思議な寓話的な内容は、『赤い薔薇ソースの伝説』、あるいは『バベットの晩餐会』を彷彿させる。しかしこの映画、単にファンタジックなだけでなく、人生を楽しむ秘訣を示唆してもくれる。一見、ショコラ(チョコレート)は快楽や欲望の象徴にも思えるが、そればかりではない。さまざまな変化を“肯定する”精神、勇気のメタファーなのだろう。寓話的であっても主人公はやはり人間で、天使でも魔法使いでもない。だからすべてがうまくいくわけではない。でも、心や体の要求に忠実(貪欲ではなく)になれば、道は開かれるであろうということだ。
禁欲と快楽、疑心と信頼、不安と安心、流浪に憧れる一方で安住も願う心、といった相反する人間の性質を物語のなかに登場する人々は持ち合わせている。どちらかの面を強く持っていた人たちが、カードが裏返るように変化していくさまは見ていて可笑しく、楽しい。別に極端に変わったわけではなくて、その両面を自分の手持ちのカードとして認め、受け入れたということだ。
その変化を巻き起こすのが、ジュリエット・ビノシュ演ずるヴィアンヌ。アメリカの女優が彼女の役をもしやっていたら、もっと大げさな感じになって台なしになっていたんだろうな。他の役者たちの“変化していく”演技も観ていて楽しい。エリザベス女王のはまり役、ジュディ・デンチや、監督の妻でもあるレナ・オリンといった女優陣が特にいい。男性では、ピーター・ストーメア。こやつ、こないだ観た『ミリオンダラー・ホテル』のジョン・レノン男じゃないかっ。パンフを見て気付いたよ。あの役と同一人物とは思わなかった。役者やのう。改心の機会を最終的に与えられなかった暴力夫の、彼の役どころだけがやや哀れ。それは、妻に対する夫の暴力を道義上許さないという陰のメッセージか?
人生はビター&スイート、なんて気障な言葉が浮かんできてしまいました(笑)。所詮作り話、同じようにはいかないよ、とは思いつつも、「♪人生楽ありゃ苦もあるさー♪」なんて歌って嫌なことも乗り切れそうな希望的観測を抱いたりして。この映画、好き好きかもしれませんが、まあ、騙されたと思って観て損はないかも。最初はセットやCGだと思っていた舞台の村は実在するそうで、ちょっと行ってみたくなった。
※ひと言:ついでながら、パンフレットのつくりも上品で素敵です。
(5/29 Up dated)
前回の更新からいつのまにか1ヵ月経ってしまった。仕事が忙しすぎたわけではないのだが、それはそれで、せっぱ詰まった仕事がなければパソコンに向かう気があまりしなく、本を読んだりビデオや映画を観たり、人と会ったり飲んだりと、これまでは息抜きにしていたようなことをわりとひんぱんにしていた5月であった。長い間更新していなかったのは単になまけぐせがついてしまったからであるが、それに、ホームページで書くことから少し距離を置いてみると、自分がこうして書いていることの意味はなんなのだろうと改めて考えてみてしまったりしたのである。あるいは別の表現方法で新たなことをやれないかどうか。同じようなことを数年続けてくると、自分自身にも少々飽きがでてくる。とはいえ、自分が考えていること、言いたいことを書き続けるなら死ぬまでできる。それだけなら今のスタイル(日記的な形式)は最適である。
とはいってもそんなことばかり考えていたわけではなく、適度に遊んでいた。GWに行った八景島シーパラダイスでは、アザラシののほほん遊泳を眺めて和んだり、甘く見ていたジェットコースターにへろへろになり足がふらふらになったり。たまには贅沢をと和牛会席を食したり。3年ぶりにいとうせいこうさんが出演したシテイボーイズの芝居を見に行ったりとか、めったにしないこともあったが、多くは代わり映えのしないありふれた日常であった。
この1ヵ月を振り返ってみれば、特筆すべきほどではないがささやかな日々の出来事の数々を楽しんでいた気がする。先般取材で行った先で買った味噌で作った味噌汁のあまりのおいしさに我ながら大いに感激したり。これまでは芝居を観に行くときはたいがい一人だったが、知り合いを誘ってみたら初見の舞台にもかかわらず割と気に入ってくれ、趣味が合う人を身近に発見してうれしかったり。仕事で神田に行った日がちょうど神田祭で、子供神輿や町神輿の渡御を見物でき、江戸っ子たちの活気をわけてもらったような気がしたり。おいしい焼肉屋の近所に住んでいるという知人の誘いにのってわざわざ焼肉を食べに、川崎のコリアンロードまで出向いたり。
仕事仲間の女性たちと3人で久々に飲もうということになり、新大久保から歌舞伎町界隈までをふらついた夜も楽しかった。2月の秘境の会合で行ったチュニジア料理店「ハンニバル」のある通りは、エスニックな料理店が並ぶ異国的な場所。そこのタイ料理屋で飲み食いしたあともう一軒ということで、手ごろな店を探しに歌舞伎町界隈までふらふら歩いた。うら寂しく怪しい暗い通りを経て、喧騒とネオンの洪水の歌舞伎町へと抜ける通りはかなりスリリングだ。歌舞伎町のはずれで焼鳥屋の赤提灯を見つけ、3人とも吸い寄せられるようにその店へ。値段は安く、小さな焼鳥屋だったが、オールディーズが流れ、マリリンモンローやジェームス・ディーンのポスターが飾ってあるという、不思議な店。派手な服を着たヤーさん風(たぶん本物)の客の隣で卓を囲み、ビールと焼鳥で語り合う女3人であった。その後歌舞伎町を抜けて新宿駅へ向かうまでの人込みと喧騒は、「ほんとに不況?」と思わせるものだったなあ。
とまあ、こう書くと飲んでばかりいたようだが、せいぜい週に1回のことである。お酒も嫌いではないが(実は好き)、気の合う人たちと飲む酒が好きだ。今月は久々に世間の人並みに飲んだり遊んだりしていた気がするが、そうしてばかりもいられない。時間のあるときにはついだらけてしまうのだが、フリーの人間にとってそれは嬉しい反面不安なことでもあったりする。
まあ、そんな不安を抱きつつも、ビデオを借りたり映画を観たり本を読んだりしてしまうのが私という人間の悲しい性(さが)。いまさら……といわれそうだが、ビデオで観てよかったのは、「パリ・テキサス」と「ハリーとトント」。どちらも観たのは初めてだったけど、映画館で観たかったなあ。いい映画だ。
今月はほぼ毎週のように劇場で映画も観ていたわけであるが(水曜はレディスデーで安い映画館が多いので)、そのことについても書いてみることに。内容は、巷の映画評を無視し、私の独断と偏見によるものです。感じ方は人それぞれということで、皆さんの感想とは異なるかもしれませんがあしからず。
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◎『トラフィック』
『スナッチ』にも出ていた個性派俳優ベニチオ・デル・トロ(あの強烈なインパクトのある顔、けっこう好き)出演、しかも作品自体の評価は各方面でかなり高いようで、かなり期待感をふくらませて観にいった。しかし、私の体調が良くなかったのか、映画自体が退屈だったのか、中盤から眠くてたまらなくなり、睡魔と闘うために意識が朦朧としていたため正当な評価ができず。
ドンパチ合戦が繰り広げられる派手な映画を期待していたわけではないので、娯楽性とは別のところを狙っている映画だったのは私的にはマイナス点ではないのだが、なぜか眠かったのである。アクション満載、見せ場たっぷりでも退屈な映画はあるのになあ。
膨大な数の登場人物たちによって交錯していく複雑なストーリー、次々起こる麻薬コネクションがらみの出来事には正直なところついていくのに必死で、こちら(観る側)は感情移入する隙を与えられない。いや、たぶん感情移入されることを拒否するためにそうした展開になっているのだろう。こちらもクールに距離を置いて“傍観”しているうちに眠気を誘われた……というのが眠ってしまった私の言い訳。各々のキャラクターが、類型的だったりヒーローぶったりせず、人間臭く描かれているのは親しみがもてたけどね。
あとでパンフレットを見てみると、舞台となる場所は、メキシコを含めほぼ現地ロケだとか。“淡々と”と感じられるほどの、リアリティを重視した展開を評価している。アメリカでは社会現象ともなるほど人気を呼んだともある。それはたぶん、映画で描かれたリアルさがアメリカ人にとっては身近なものだったからだろうと思う。日本人は、麻薬シンジケートの怖さを知ってはいても、ここで描かれているような犯罪社会には、どこか“他人事”の感があってそこまでの強烈な共感はできないのでは。まあ、映画に共感することが必要かは別として。
私にしてみたら、あまりにも追求されすぎたリアリティというのがどうも鼻につくのかもしれない。しょせん映画なのだからという手抜きはもっと駄目だけど、リアルさ以上に、観るものをいろんな意味で「楽しませて」もらいたいと思う。中盤は眠かったため断片的にしか覚えていないが、この映画はハリウッド大作のようにわかりやすいものでは決してない。むしろ私としては、わかりやすい映画には飽き飽きしているほうだが、好みであるはずのこの「わかりにくい映画」にそれほどのめり込めなかった理由はなぜなのだろう。単に睡眠不足だったからか。いやいや、これまでの経験上、私が映画館で眠くなるのは退屈し始めたときなのだ。確かにリアリティはあるのかもしれないが、面白みに欠けていたのではという気がしないでもない。ということで、もしかすると2度目にちゃんと観たらまた印象は違うかもしれないが、ひとまず、退屈だったというのがこの映画の私の評価。とはいえ、おだやかなラストシーンはベニチオ・デル・トロの表情とあいまって、好感がもてるものではあった。
※久々の更新でかなり長文となってしまったので、ひとまずここまで。半分眠って観てた映画のことだけでどーもすみません。でも次の2作はちゃんと観てたよ。その『ミリオン・ダラー・ホテル』『ショコラ』のことはまた明日までに! サイチェン。
(5/28 AM Up dated)