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巻第二 平成十三年 二月
※初めての方は一番下からお読みいただくと、日付の順に見られます。
■まぬけ女、東京タワーを目指し歩く(2/19)
その日私は、ビルの間の東京タワーを見つめながら、自分のおまぬけさにあきれながら、タメイキをついていた。
というのも、そもそもは……。前回このホームページを更新したのは、18日の深夜(19日明け方)。その前の週は急ぎの仕事がなかったため、だらだらと昼頃起きる日々が続いていた。しかし19日月曜は久々に打ち合わせのアポがあったので、朝ちゃんと起きなければならなかった。あまり眠れぬまま気合いを入れて午前中に起き、打ち合わせ先の虎ノ門の会社へ向かう。しかし、時間になっても同行予定者は誰も現れない。来るはずだった相手の携帯に私は電話した。よく待ち合わせに遅れてくる人だったので、「またかい!」と内心ぷりぷりしつつ。ところが。相手は「あれ、明日じゃなかった?」と言う。えっ……。でも、カレンダーにも手帳にも、19日って……。しかしそのとき、アポイントを決めたときの会話が脳裏に蘇った。「19日でも20日でも私はどちらでも。そうですか、じゃ20日に」というやりとりがあったような。しまった。20日と決まって、手帳の19日の欄にメモしたのであろう……。そしてそのあとカレンダーにも……。
はあ。久しぶりの打ち合わせだから、ご近所ルックではなくお仕事ルックで装ってきたのに。んもー、まぬけ〜〜〜。次の日また出直してこなければ。このまますぐ帰っても家でやるべきことはいろいろあったが、なんだかすっかり気力がうせてしまった。
そこで街角に佇みぼんやりとビルの間の東京タワーを見ているうち、港区芝に事務所を持っている知り合いのことを思い出した。その事務所にはまだ行ったことないし、その人が暇だったらおじゃまさせてもらおうかな〜、ということで電話をする。彼女は「それほど忙しくないから、来れば」と言うので、お言葉に甘える。
天気はいいし、最近運動不足だったので散歩がてら歩いていこう。その前に、スターバックスを真似たようなカフェでカプチーノと、手みやげのクッキーのテイクアウトを頼む。虎ノ門は外国人のビジネスマンをけっこう見かけるが、私の前に並んでいたそんな彼らの一人はちょっとブラピに似ていて、なかなかのハンサム。そんなことでウキウキする私って、おやじ入ってるかも。そしてカプチーノを飲みながら、歩いて東京タワーを目指す。てくてくとひたすら歩く。途中の薄暗い神社の石段では、外国人カップルが記念撮影をしていた。だんだん東京タワーが近づき、やがてその下へ着いた。天気がいいのでつい展望台へ昇ってみたくなったが、知人のところへ行くと言ってしまっていたので、約束通りその事務所へ。
彼女が新しく購入するマックの話や、いよいよ始めるというインターネットについてなどなんだかんだそこで話をしながら、茶を飲む。マイラインのことっていまひとつよくわからなかったけど、プロバイダーのことがよくわからないという彼女の代わりにインターネット加入について問い合わせの電話を私がしてみて、少しわかってきた。しかし面倒くさいシステムだよなあ、マイライン。小1時間ほどで帰るつもりだったが話がはずみ、結局夕方までおじゃましてしまった。
この日は散歩で気分転換になったけど、1日時間を無駄にしてしまい。ああっ、そのあと週の後半に仕事のツケが……。
(3/7Up dated)
■本を読み、だらだらと仕事をする(2/18)
気持ち良く晴れ渡り、日差しがぽかぽかと暖かい土曜日。洗濯物を干していると、隣の部屋に住んでいる男性がかけているソウルミュージックにあわせ、歌っているのがかすかに聞こえてくる。アース・ウインド&ファイアーあたりのようだ。隣の男性、ディスコ世代なのかなあ。そういえば彼が越してくる前に住んでいた男性は、ドリカムをかけながら歌っていたっけ。しかし、こうして私に聞こえてくるということは、私がときどきクイーンやジャーニーをかけながら合わせて歌っているへたくそな歌も聞こえているのであろうというわけで。隣人がいなさそうな平日の夕方とかだったんだけどな。うーむ。
今週は週末に友人ヒロと遊び、他に一日だけ知り合いの事務所に顔を出した以外、家で電話をかけ、パソコンに向かい、あれこれ平行して本を読む日々。仕事以外の普通の会話に飢えているようで、出かけると事務所では人の仕事をじゃましつつ話したり、ヒロと行った飲み屋ではだらだら6時間もしゃべってしまった。そんなお気楽な一週間であった。
買ってきた山本文緒さんの短編小説のそれぞれの落としどころのうまさにしびれ、田口ランディさんがかつてメールマガジンで発信していた内容の目の付け所、文章のまとめ方のうまさに今更ながら感心し、彼女達が日々考えていることの内容に刺激を受ける。JCOの臨海事故のその後、インターネット上でランディさんが元JCO社員の人とこんなやりとりをしていたなんて知らなかったよ。あの頃私は、あげなきゃいけない仕事に追いまくられ知り合いの事務所に泊まり込んでて、朝やってきた人から「大変なことが起こったよ」と、臨海事故のニュースを教えてもらったっけ。
考えていることを伝わるように書く。考えていたこと、言えなかったこと、伝えたいことを物語に託し表現する。できそうでいて難しいんだ、これが。
さて、来月はなにかと仕事がテンパるはず。その前に少しぐらい、心にうるおいを与えておかなくては。充電、充電。といいつつ、だらあ〜〜っとして、それが癖になりそうなんだけど……。
(2/19AM Up dated-2)
■日記を書く人々(2/13)
今週はまた、ほぼひきこもり週間になる予定。昼間はいろんな人に電話して話を聞かなくてはいけなかったので、半日を電話して過ごす。面識のない人と電話するのは毎度のことながらあまり気が進まないが、これも仕事であるからして。メールをするようになって、めっきり私用の電話が減った(つまりほとんどの電話は仕事である)。何かをしているときかかってくる電話も減った。それはそれで気が楽だが、家で仕事をしていると、仕事の電話でもないとしゃべる相手がいない。
夕方になり、その電話の話をまとめるか、昨日まで書きかけていたホームページの文の続きを書こうかと迷ったが、気晴らしに本屋へ出かけてしまう。
田口ランディさんの『ぐるぐる日記』ほか、山本文緒さんの小説を文庫で3冊、上野正彦さんの『死体は語る』をまとめ買い。ほかにも積ん読になっている雑誌や図書館から借りた本があるというのに、いつ読むんだよオイオイ〜、って本に埋もれていく私……。
田口さんは気になっていた書き手だったが、メールマガジンで彼女のコラムは取っていなかったので、ゆっくり読むのはこれが初めて。小説も少し立ち読みしたんだけどね。やはりうまいよ。買った『ぐるぐる日記』を夕食後にぱらぱらと読み始め、いや〜、はまってしまった。それにしても私は、山本文緒さんの日記本もこの間読んだし、人の日記ばかり読んでいる。日記が私を呼んでいる。
そもそも日記って、かつては誰にも見られたくないからこっそり書くものだった気がするのだが。まあ、作家の日記公開は以前からのことだったし、書かれるものと作家の日常、考えていることを知りたくてみんなも私も読むのだろう。
私のこのページも、日記といえばそうなのかもしれない。でも厳密に言うと、ちょっと違う。私にとっての日記のありかたは、“他者に見られることを意識しない独白”。一方、こうしてインターネットで書く物は、形としては日記に見えるかもしれないが、それとはちょっと違う。“他者に見られることを意識したたわごと”なのだ。ウソはほとんど書かないが、その代わり、あえて事実を書かないこともある。そのあたりが微妙に違う。
最近は日記らしい日記を書かなくなったが、学生時代はよく書いていた。そこで綴ることは、口に出して言えないことや、うまく人前では言えなかったこと、友人や好きな人、親達に伝わらなかった思いなどなどだった。思春期の私は、そうやって精神的なバランスを取っていたのだと思う。ランディさんの日記を読んでいて、かつて私も“書きたくてたまらなかったから書いていた”そんな気持ちを思い出した。
また、仕事に追われると掃除をしたくなるという心境について彼女が書いていた、「部屋がきれいだから集中できるのではなくて、集中するために掃除という行為が有効なのだろう、と思う」ということに私も共感。なぜか忙しいときほど掃除をしたくなるのは、そういうことだったのかと納得したりして。
山本文緒さんの短編も平行して読む。仕事してるんだか、暇なんだかよくわからない週の幕開け。とりあえず、せっぱつまった仕事がないので気持ちにはかなりゆとりがある。こういうときにさっさと先の予定を済ませてしまえばいいのだけれど、なかなかねー。忙しくないときぐらい、ゆっくりしたいじゃないの。ねえ。
(2/19AM Up dated-1)
■平穏な連休(2/12)
10日に入金が予定されていたギャラが入っていなかったので、お金が乏しく、地味な連休を過ごした。もっとも私はフリーの生活なので、あまり連休も関係ない生活を普段から送っているのだが。連休後半はバイオくんを近所のカフェに持ち込んで、雑文をパチパチ打ってみたりして過ごした。昨年秋に行った奈良での見仏記を書いてみるが、けっこう忘れているなあ。でも、書いたら書いたでかなり長くなる。3日の旅程のうち、半分しか書けなかった。残りは今週せっせと書くので、お暇な人は読んでね。ギャラにならない趣味の雑文書いて、何やってるんだか。確定申告もせねば。
10日の夜は、最近あまり会っていなかった友人のS美さんに誘われ、デビュー間もないミュージシャンのミニライブを見に、新宿へ。彼女が前に勤めていた会社の人がプロデュースした、KAZCOというミュージシャン。アメリカでゴスペルを学んだことがあるそうで、ゴスペルも披露。低音の迫力はいまひとつだが、中音域の伸びが心地よく感じられる声だった。また、映画『バグダット・カフェ』に使われた曲、「コーリング・ユー」はよかった。小さなライブハウスだったので、次の回の客が来ると席が足りなくなってしまうかと、最初の回でS美さんと一緒においとまする。
彼女とは久しぶりに会ったのでもう少し話そうと、アイリッシュパブ、『ダブリナーズ・アイリッシュパブ』へ寄る。ときどきギネスビールが飲みたくなると「一人でも入ってみようか……」と迷うのだが、勇気がなくて未だに一人で入ったことはない。一人の客も多いが、「ここはほんとに日本か?」という感覚に陥ってしまうほど、外国人客比率の高い店である。席がなくてもみんな立ち飲みでワイワイ楽しんでいる。私たちが入ったときは席が空いていたので、つい座ってしまった。最近運動不足で体力ないのよ。濃厚なギネスビールを飲みながら、お互いの近況や仕事のことなどを話す。仕事に対する価値観が近くて、ちょっと嬉しい。久しぶりの友人と会うと、違う視野を持って話が出来ていいものである。
久しぶりに仕事の心配をせずいられた、平穏でぐうたらした3日間だった。
(2/12 -3 up dated)
■「ザ・スライド・ショー6」/渋谷公会堂(2/8)
催されるたびチケット取りに必死になり、ここ数年というもの、つい見に行ってしまうイベント、いとうせいこう氏&みうらじゅん氏によるスライドショー。今年は前から3列目という素晴らしい席が取れた。しかし、私が慣れてきてしまったのか、期待が大きすぎたのか、今年の内容は「ややウケ」。オープニングの演出はかなり力入っていたようで、けっこう期待したのだけれど。初めて見た人には何が何だかわからなかったと思うが、前回までのネタを知っている人、お二人の趣味とキャラを知っている人なら手を叩いて喜ぶ演出。巨大天狗の面、トランポリンで弾み飛ぶ“ヨーロピア〜ン”な人、軍服姿の水野晴郎……。で、本編のほうも期待したが、うーん、過去に腹を抱えて爆笑し、顔面が筋肉痛を起こした度合いには至りませんでしたなあ。いとう氏が床にのたうちまわりながら笑っていたネタぐらいでしょうか、爆笑度のアベレージ高かったのは。みうらさんも忙しいのか、昨年よりイラストネタ「オレのシリーズ」少なめだったし。全体的にゆる〜い感じ。
次はなんと武道館でやるとか。なんか、インディーズバンドだった頃のバンドがメジャー化していく過程を淋しく思うファンのような心境だなあ。オイオイと思いつつ、また行ってしまうんだろうけど。
みうらさん、会場プレゼントの“いやげもの”がカネかかってなくてちゃちいものになってもいいし、私たちが帰れなくなるぐらい山ほどスライド枚数用意してもいいっすから、笑い死にさせてぐれるぐらいのネタ用意してください〜! まあ、ネタの重要さ半分、そのときのお二人のトークのノリ半分なので、どう転ぶかわからないところがこのイベントの面白さでもあるが……。(2/12 -2 up dated)
■誠実さの在り方/『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観て
(2/7)「泣ける映画」という噂は聞いていたが、それで関心があったわけではなかった。歌手のビョークが主演、しかもそれがかなり話題を呼んでいる、ということで興味があった。CMでときどきこの映画の予告を見かけたが、それ以外は、ときどき雑誌でうっかり斜め読みしてしまう映画紹介のほかは、いつものようにあまり事前知識を仕入れずに見に行った。行ったのがその映画館の女性割引の水曜日とあって、最終上映回はかなりの込み具合。ぎりぎりに入館したので、暗闇のなかで空いている席をようやく見つけて座る。
はっきり言って、中盤までは私にとっては退屈だった。ミュージシャンとしてのビョークのイメージとはまた違って、ほとんど素顔の彼女が割とベビーフェイスだったことに対し意外さを感じたり、演技もなかなかなことに感心したり、いずれ失明する病気である彼女の設定に、「目の悪い私にとっても人事ではないかも」などと思ったりしつつ、なかなか物語世界に入り込めないでいた。ビョークの歌の扱いがBGMではなく、ミュージカル仕立てだったのも、ちょっと引き気味の原因。歌はまだしも、ダンスなどの演出は単に技巧的なだけで、そこにユーモアや意外性があまりなかったのが惜しいな、と感じていた。ビョーク演じるセルマを慕う男性が、「ミュージカルは変だよ。どうして急に踊りだしたり歌いだしたりするんだい?」とセルマに聞き、ミュージカルを茶化していたのは唯一ユーモアが感じられた箇所だったが。まあ、ミュージカルの部分は、“辛い現実を楽しくするためのセルマの空想”、という扱いだったので、この映画では欠かせない場面ではあるけれど。
少々退屈していた私が徐々に引き込まれていったのは、中盤以降だ。そのニュアンスを何かにたとえるとしたら、クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』。曲の序盤、後半はまったく異なるイメージで、徐々に壮大に展開していく、あの感じ。事件が起こって以降、ミュージカル部分と現実との対比もがぜん生きてきたように思った。ビョークの演技も、役者を本職にしてもいいくらい冴えてくる感じだった。特に、「107歩」を歩ききるまでのシーンは、単なる数字が心震わす歌になることにちょっとした感動を覚えた。そしてラストまで続く一連の流れは、観るものを圧倒する迫力があった。会場で鼻をすすっている音があちこちからしていた。私もなるべく鼻をすする音をたてないようにしつつ、涙してしまっていた。
似たような題材を扱った映画に『デッドマン・ウォーキング』があったが、宗教に頼らずに運命を受け入れること、そして生の最期の瞬間までを包み隠さず見せ、そこに至るまでの心理の揺れを描ききった点では、こちらに軍配があがるだろう。
シングルマザーのセルマのバックグラウンドを、説明しすぎないというか、ほとんど種明かししていないところもよかった。この映画では、セルマの本当の父の名も、母のことも、子供の父親はどういう夫で、なぜセルマ一人で子供を育てることになったのか、アメリカに移民として来る前のチェコでの暮らしぶりなど、真実は裁判上でもほとんど明らかにされない。でもそれは描き込み不足というよりは、意図的にそうしていたのだと思われる。そうすることで“語りたくない過去”や“歌や空想で辛いことを忘れる、夢見がちな性格の訳”といったものを、観る側は自分の空想の中で膨らませられるからだ。
ともあれ、空想から生じたささいな嘘と、誠実さゆえの黙秘から、セルマの立場はどんどん悪くなっていく。しかし彼女は、大切な息子のためにその立場を受け入れる。この映画を、“母の強い愛の物語”と見ることもできるかもしれないが、私の印象は少し違う。誠実であるほどに伴う責任の重さ、そしてそれを押し通すときの人間の弱さと強さ。そうした光と影が描かれていると感じられたのだった。
セルマは誠実すぎるがゆえに、自分に不利になることでも、「相手が望んだことだから」「言わないと約束したからです」と沈黙する。彼女は正直で誠実だが、身勝手な面もある。“失明するかもしれない”自分の目の病気が遺伝することを知っていながら、「子供を抱いてみたかった」から子供を産んだ。しかし、その身勝手な面を自分で自覚し、その責任を引き受ける覚悟をもっていた点は清々しい。
セルマのしたことは正しかったのか、間違っていたのか。観る者にその答えが求められているわけではないのに、観ながら私もまた考え、答えに迷う。誠実すぎるがゆえの恐さも感じながら、もしかするとある種の犯罪は、こうした人たちが起こしてしまうのかもしれない、と、ふと思ったりもしつつ。誠実であることは、ときには悲劇も生む。誠実さと責任感は非常に近い種類のものであり、かつ、諸刃の剣だと思えた。主人公の心理や話の展開に共感・納得できない点は一部あるし、ミュージカルが生かされていたとは言い切れない。好きか嫌いかと聞かれるとどちらとも答えられない、私の中の分類学上では難しいポジションにある映画だ。しかしそれでも、評価はするし、後半だけでも観るに値する。面白いけれど何もあとに残さない映画とは違い、ざらついた感覚があとをひく種類の映画。好きと嫌いの狭間。嫌よ嫌よも好きのうち。私にとっては、そんな映画だった。
(2/12 -1 up dated)
■プレゼントの基準(2/8)
「好きになると相手にプレゼントしたくなるたちだから、自分ももらいたい」と言う者がいるかと思うと、「そう?」と混ぜ返す者がいる。どんな物をあげるのかと聞くと、ネクタイやバッグなどだと答える。かと思うと、「貢ぎすぎには気をつけなきゃいかん」と言う者がある。それでは、もらって嬉しい物はという話になると、ある者はCDや本、花がいいと言い、ある者は「花は嬉しいけどもったいない。だから写真に撮っておいたりする」と言う。また、なかには、食べられる物がいいと言ってすすめる者もいる。要するに、嬉しいプレゼントというものの基準は、人それぞれということなのだ。
とまあ、カレル・チャペック的(まんまだけど)書き方で綴ってみた。これは先週末、友人の結婚式の打ち合わせをしているときに話題になったことである。友人同士でもこれだけ“プレゼント”に対する考え方が異なることをとても面白く感じた。当たり前だが、人の物事のとらえ方は実にさまざまだ、と改めて感じた次第。どれがいいとか悪いということではない。しかし、だからこそプレゼントは難しい。
私はというと、もらって嬉しく、困らないのは本やCD、花かな。若いときはまだしもイイ年になると、たいがいの物は持っているし、欲しいと思ったときに買えるし、増えすぎる物に困るときもある。くだんの友人の一人も、「最近はあえて欲しい物ってないんだよなー」と言う。わかる。だから私はある時期から、プレゼントしてくれるという人に「何が欲しい?」と聞かれると、そのとき観たい映画やコンサート、本やCD、ビデオなどをリクエストしてきた。最初のうちは向こうは“そんなのでいいの?”という反応をみせたが、だんだんこちらに感化されてきてるようで、向こうのリクエストも私と似てきてたりする。
それでは他人はどうか。あまり気のなかった男性からプレゼントされた貴金属やらなんやらを、当時私がよく出店していたフリーマーケットに出したいという子が何人かいた。物では愛情は得られなかったようである。
またある友人の話では、会社にいるかわいい女性に好意をもっているらしい男性が、その彼女にしょっちゅうお菓子の出張みやげをあげていたという。食べないのも悪いと思いせっせと食べていた彼女はその後、1年で5キロだか8キロだか太ってしまったとのこと。ある種の愛情は人を太らせる。
また、かなり昔、私とバイト先が一緒だった男性は、“今の彼女への誕生プレゼントは毎年オルゴール”と決めていると言った。なぜなのかと聞くと、答えは「アクセサリーとかほとんどしていないから」。しかし、そのときでつきあって5年目ぐらいだとか聞いたから、すでにオルゴールは5つ……。その話を別の知りあいにすると、「アクセサリーしてないのって、“たまには欲しい”ってアピールなのでは?」。一理ある。その彼女のことを私は知らないので、彼女が本当はどう思っているのかは図りしれないが。
まあ、要は“相手が喜んでくれたらこちらも嬉しい”という単純な気持ちから、相手にプレゼントしたくなるのだよね。たいがい、自分が好きな物を選んでしまいがちだけれど(食べ物をせっせと贈った彼は自分も食べ物好きとみた)。そう考えると、学生時代にほとんどの女の子が贈った経験があるであろうバレンタインのチョコって、あれどうなんだろう? 嗜好的にはあまり甘いものが好きじゃない男の子もいたことだろう。それでも、気持ちは嬉しいと思ってくれてたのか。やっぱり、物より気持ちの問題だよねー。しかし、あの頃バレンタイン時期に抱えていたせつない気持ちも、今は昔……。相手が喜ぶかどうかよりも、気持ちを伝えたい思いで精一杯だった身勝手さが、少しだけ懐かしかったりする。
※昨日は久々に映画を観に。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、ちょっと想像してたのと違った感はありましたが、あとで感想でも書いてみよう。これからちょっと出ますもので……。